1954年、日活と専属契約を結び、1956年、「港の乾杯・勝利をわが手に」で監督デビューされた、鈴木清順(すずき せいじゅん)さん。その後、「野獣の青春」「肉体の門」「東京流れ者」「けんかえれじい」など、独特の映像美と世界観で多くの映画ファンを熱狂させるも、1967年に発表された「殺しの烙印」で、その作風が理解できなかった日活に解雇され、以後10年間、不遇な時代を過ごされています。


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プロフィール!

鈴木さんは、
1923年5月24日生まれ、
東京府東京市日本橋区のご出身、

出身大学は、
旧制弘前高等学校(現在の弘前大学)、

本名は、
鈴木 清太郎(すずき せいたろう)、

弟には、元NHKの人気アナウンサー、
鈴木健二さんがいらっしゃいます♪

東大受験不合格で映画界へ

鈴木さんは、大学在学中の1943年に、
学徒出陣で応召されるのですが、

終戦後の1946年に復学すると、
1948年に大学を卒業。

その後、東京大学経済学部を、
受験されるも、不合格となってしまい、

同じく、東京大学の受験に失敗した、
演劇好きの知人に誘われて、当時できたばかりの、
「鎌倉アカデミア映画科」に入られています。

助監督として下積み時代

そして、同年9月には、別の友人の誘いで、
松竹の助監督の試験を受けられると、
見事、合格。

(ちなみに、合格者は1500人中8人だったそうで、
 すごい難関だったことが分かります。)

その後は、渋谷実さん、佐々木康さん、中村登さんら、
様々な映画監督に師事され、

1951年、メロドラマ専門だった岩間鶴夫さんの、
専属助監督を務められています。

監督デビュー~「東京流れ者」

その後、1954年には、
監督の西河克己さんに誘われて、
日活に移籍されると、主に野口博志さんに師事し、

1956年、本名の「鈴木清太郎」名義で、
歌謡映画「港の乾杯・勝利をわが手に」で、
監督デビュー。

「港の乾杯・勝利をわが手に」より。南寿美子さんと三島耕さん。

当初、作品の評価は、
パッとしませんでしたが、

1958年「暗黒街の美女」から、
「鈴木清順」に改名し、

翌年1959年の、赤木圭一郎さんのデビュー作、
「素っ裸の年令」あたりから、次第に、
その西洋風な演出が認められていきます。

また、美術監督、木村威夫さんとの出会いがあり、
美術だけでなく、脚本面での協力も得ると、

1963年「関東無宿」
     「野獣の青春」

1964年「肉体の門」
1966年「東京流れ者」
     「けんかえれじい」

など、優れた色彩感覚と映像リズムで、
独特の世界観を作りだし、

「清順美学」として、
熱狂的なファンを獲得されたのでした。

「けんかえれじい」より。浅野順子さんと高橋英樹さん。

解雇と裁判

こうして、順調に映画監督のキャリアを、
積まれていた鈴木さんなのですが、
事態は一変します。

鈴木さんは、1967年、
宍戸錠さん主演のハードボイルド映画、
「殺しの烙印」を発表されるのですが、

その難解さに、日活の社長、堀久作さんが、

「わからん映画ばかり作られては困る」

と激怒し、鈴木さんは解雇されてしまったのでした。

また、この時、
堀社長は、鈴木さんに、

一本6000万円もかかる映画を、鈴木は全部赤字にする。
鈴木にはもう二度と日本で映画を撮らせない。
監督をやめてソバ屋にでもなった方が良い。

などと発言されたため、

鈴木さんは、日本映画監督協会と、
日活撮影所監督会に事態の収拾を依頼され、

ご自身も内容証明郵便で、
解雇の撤回を日活に求められますが、

合意に達することができず、
告訴に踏み切られると、

有名監督や俳優など、映画人らが中心となって、
「鈴木清順問題共闘会議」が組織され、
抗議活動が行われるなど、
日本映画会を揺るがす一大事件となったのでした。

結局は干された状態に

ちなみに、この裁判は、
証人調べだけで2年半を要し、

長期化すると思われたのですが、
1971年には、和解が成立。

一件落着かと思われたのですが、
この出来事で、鈴木さんは、
各映画会社から恐れられてしまい、

結局は、映画を1本も撮ることができず、
「木乃伊の恋」など、数本のテレビ映画と、
CMを演出するのみという、
失業状態に追い込まれてしまったのでした。

「ツィゴイネルワイゼン」で復帰

そんな鈴木さんは、1977年、
松竹の「悲愁物語」で、
ようやく、映画に復帰されると、

同年、テレビアニメ「ルパン三世」の、
第2シリーズに、監修としても携わられます。

そして、1980年には、
映画「ツィゴイネルワイゼン」を発表されると、

鈴木さん独特の映像美が、
幻想的な物語とあいまって、

「キネマ旬報ベストワン」
「芸術選奨文部大臣賞」
「日本アカデミー賞最優秀賞作品賞及び監督賞」

を獲得するなど、各映画賞を総なめに!

さらに、「ベルリン国際映画祭」では、
「ベルリン国際映画祭審査員特別賞」を受賞され、
見事な復帰を果たされたのでした。

「ツィゴイネルワイゼン」より。(左から)原田芳雄さん、
大谷直子さん、藤田敏八さん、大楠道代さん。

偉大なる巨匠に捧げるオマージュの盾

以降、鈴木さんは、

1981年「陽炎座」
1985年「カポネ大いに泣く」
1985年「ルパン三世 バビロンの黄金伝説」(劇場版アニメ)
1991年「夢二」
1993年「結婚」

など、意欲的に作品を発表されると、
その後はしばらく、監督業から遠ざかっていたのですが、

2001年に、
「ピストルオペラ」を発表されると、

ヴェネツィア国際映画祭で、
「偉大なる巨匠に捧げるオマージュの盾」を受賞。
鈴木さんの作品が特別上映されています。

「ピストルオペラ」の撮影現場より。中央が鈴木さん。

また、2005年の「オペレッタ狸御殿」も、
カンヌ国際映画祭で、栄誉上映特別招待作品となっています。

(ちなみに、鈴木さんは、監督業だけではなく、
 不遇時代に、その特異な風貌とキャラクターを買われて、
 俳優業としても活動されており、1980年代から1990年代にかけて、
 数多くのテレビドラマや映画に出演されています。)

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48歳年下の女性と再婚、死去

ところで、プライベートでは、1997年に、
47年連れ添った奥さんが亡くなり、その後、
長らく独身を貫いておられたのですが、

2004年、80歳の時に、
鈴木さんのファンだった、
48歳年下の女性と意気投合し再婚。

すでに車椅子生活だった鈴木さんは、
新しい奥さんに献身的に世話してもらっていたようで、

奥さんの存在をはげみとし、
新作の準備を進められていたそうですが、

2017年2月、
「慢性閉塞性肺疾患」のため、
93歳で他界されています。

さて、いかがでしたでしょうか?

豊かな才能を持ちながら、日活に理解されず、
解雇されたばかりか、その後10年に渡り、
不遇な時代を過ごされた鈴木さんですが、

その原因となった映画「殺しの烙印」と、
その後日談と呼ばれる「ピストルオペラ」
是非、御覧ください。

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