「だいじょうぶだぁー」「アイーン」「だっふんだぁ」など、数多くのギャグで、社会現象を巻き起こすほどの人気を博した、志村けん(しむら けん)さん。今回は、そんな志村さんの、知られざる少年時代についてご紹介します。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?芸名の由来は?

志村さんは、1950年2月20日生まれ、
東京都東村山市のご出身、

身長166センチ、

血液型はA型、

学歴は、
東村山市立化成小学校
⇒東村山市立第二中学校
⇒東京都立久留米高等学校(現・東京都立東久留米総合高等学校)
(高校時代は、サッカー部に所属し、ゴールキーパーとして活躍。志村さんは、一期生としてこの高校に入学されていて、当時はサッカー部も弱かったそうですが、後にサッカー部はサッカー日本代表の中村憲剛さんを輩出する強豪校となっています)
⇒放送大学卒業
(いつ頃かは不明ですが、芸能活動と両立しながら大学に通い、卒業されています)

趣味・特技は、津軽三味線、

ちなみに、本名は「志村 康徳(しむら やすのり)」で、芸名の「志村けん」は、お父さんの「憲司(けんじ)」という名前から取ったそうです。

厳格な父親が支配する気詰まりな家庭で育つ

志村さんは、小学校の教頭だったお父さんの憲司さんと、踊りや芸事が好きだったお母さんの和子さんの間に、3人兄弟の末っ子として誕生するのですが、

お父さんは、冗談が通じない、とても厳格な人で、礼儀やしつけにも厳しく、幼い志村さんにとっては、とても怖い存在だったそうで、

志村さんによると、

暗かったですねえ。会話のない家でね。娯楽はテレビを見ることくらいしかなかった。

と、そんなお父さんが支配する家庭はいつも重苦しい雰囲気に包まれており、祖父母や父親の兄弟も一緒に暮らす大家族の中で(志村さんが小学生の頃には10人くらいいたとか)、志村さんは、特に甘やかされることもなく育ったそうです。

芸事や笑うことが好きだった母親の影響を受ける

その一方で、お母さんは、結婚するまでは、踊りをするなど芸事が好きで、明るく、笑うことが好きな家庭で育ったそうで、

志村さんは、

おやじもじいさんも厳格で怖かった。おふくろも笑いたかったと思うんです。正月とお盆に、自分の実家に帰った時は、笑顔を見せてましたから。

と、お母さんが窮屈だったろうと振り返っておられました。

それでも、

そんな暮らしの中でも、遊び心があったなあ。小学生のころ、オレが朝なかなか起きないと、脇で針仕事をしながら、その糸に唾をつけてね、オレの顔にそれをつけるんだよね。

ひゃーって飛び起きると、してやったりとばかりにニヤッと笑うんですよ(笑)

と、お母さんからお笑いのセンスをもらったことを明かされていました。


志村さんとお母さんの和子さん。

ちなみに、家庭は貧しく、食卓では、さんまさえも一人一匹食べることができず、いつも、尻尾か頭かで取り合いになっていたそうです(頭は苦いため、兄弟で一斉に尻尾を取り合ったそうです)。

コメディアンを目指したきっかけは小学生の時のおもらし

そんな窮屈な家庭で育った志村さんは、小学3年生の時の運動会では、徒競走の直前、緊張したせいで便意を催すと、なんと、スタート直前で漏らしてしまいます。

その時は、情けなくて泣くことしかできなかったそうですが、その後、クラス中からからかわれるようになってしまったそうで、

おもらしのイメージを払拭したい…

と、考えていたところ、

たまたま耳にしたレコードが、酔っぱらいが登場する落語だったことにヒントを得て、クラスのひょうきん者を演じることを決意。

友達を誘って初めて披露したコントは、酔っぱらいネタだったそうですが、その後もお笑いを続けているうち、やがて、

人を笑わせるって気持ちいい!

という、感情が生まれるようになったのだそうです。

厳格な父親が笑っている姿を見てコメディアンへの憧れを強める

また、ある時、志村さんが、テレビで、榎本健一さんが座長を務める貧乏な旅回り一座による劇中劇を中心に、旅先でのハプニングを織り交ぜた喜劇番組「雲の上団五郎一座」を夢中になって見ていたところ、

一緒に見ていたお父さんが初めて声をたてて笑うのを見たそうで(厳格なお父さんは、これまで、決して声を出して笑うことなどしなかったそうです)、ますます、

コメディアンになりたい

という思いは大きくなり、

志村さんが中学に上がった頃には、お父さんは、校長を目指して勉強ばかりしていたそうですが、そんなお父さんの姿を見て、

つまんない人生だな

と、さらに強く、テレビの世界に憧れを抱くようになっていったそうです。

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父親が交通事故で記憶障害に

そんな中、1962年、志村さんが中学1年生の時、お父さんが自宅前で交通事故に遭ってしまいます。

その時は、すぐに退院でき、特に問題はなかったそうですが・・・

それから3年後、志村さんが、夕飯ができたため、書斎に呼びに行ったところ、

どちら様ですか?

と、聞かれてしまったというのです。

つまり、お父さんは、事故の後遺症(脳内出血)で「記憶障害」になってしまい、志村さんのことが分からなくなってしまったのでした。

そして、それ以来、お父さんは、お母さんに暴力を振るうようになったそうです。

「志村けんは高3でいかりや長介に弟子入りし付き人になっていた!」に続く

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