若々しいルックスとは裏腹に、女優歴60年を超え、大女優となられている、十朱幸代(とあけ ゆきよ)さんですが、実は、十朱さんのお父さんは名脇役だった俳優でした。今回は、そんな十朱さんのお父さんと生い立ちについてご紹介します。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?

十朱さんは、1942年11月23日生まれ、
東京市日本橋区(現・東京都中央区日本橋)のご出身、

身長163センチ、
体重50キロ、

スリーサイズは、82-58-85、

靴のサイズは23.5センチ、

血液型はO型、

学歴は、
目黒区立原町小学校
⇒目黒区立第九中学校
⇒文化学院高等部英文科卒業

趣味は、読書、

特技は、日舞、三味線

ちなみに、十朱さんの本名は、「小倉幸子(おぐら ゆきこ)」ですが、お父さんが、俳優の十朱久雄(とあけ ひさお)さん(本名は小倉久雄)だったことから、同じ名字の芸名を名乗られたようです。また、兄弟は、兄と妹(一般人)がおられましたが、二人とも、ガンのため60代で他界されています。

父親は俳優の十朱久雄

十朱さんのお父さんは、映画「東京物語」などに出演された名脇役の十朱久雄(とあけ ひさお)さんです。


十朱久雄さん。

久雄さんは、東京・日本橋に江戸時代から続く老舗の麻問屋「小倉貿易」を営む家に誕生するのですが、家業を継がず、大学在学中の1928年、高見順さん主宰の劇団「制作座」に参加されると、1930年には、「テアトル・コメディ」の設立に参加。

その後、「ジャン・ド・ラ・リュンヌ」の主演で初舞台を踏まれると、「テアトル・コメディ」の舞台で活動されていたのですが、1936年に、「テアトル・コメディ」が解散すると、同年には、大衆劇場「ムーラン・ルージュ」に入団。

ただ、翌年の1937年、俳優としてこれからという時に、「小倉貿易」を営まれていたお父さん(十朱さんのおじいさん)の意向で繊維会社に就職。

それでも、1946年には、NHK大阪放送局のラジオ出演で芸能界に復帰されると、1950年には、「文学座」の客員で舞台にも復帰。

以降、「文学座」の舞台で活動しつつ、次々と映画に出演され、1953年には、「文学座」を退団し、映画に専念。1957年からは、テレビドラマにも出演されました。

そんな久雄さんは、会社の社長、専務、校長先生などの役を得意とするほか、ユニークな役も数多く演じられ、名脇役として活躍されたのですが、1985年、「肺がん」のため、77歳で他界されています。

父・十朱久雄は酒を飲むと暴れていた

ちなみに、娘の幸代さんによると、久雄さんは、普段は優しかったそうですが、酔っ払うとお母さんに怒り出しては、一番大事なおかずを投げつけたり、ちゃぶ台をひっくり返すなど、大暴れされていたそうです。

また、俳優業だけでは生活が苦しかったため、お母さんが、氷屋や手作りコロッケを販売して家計を支えられていたそうです。

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少女時代はおてんばだった

さて、十朱さんは、そんなお父さん・久雄さんと、お母さん・光子さんのもと、3人兄妹の2番目の子ども(長女)として誕生すると、戦争が色濃くなってきた1944年、2歳の時に、奈良県に疎開(小学校4年生まで)。

小学校低学年の頃は、おてんばで、放課後、毎日、外で男の子と遊んでいたそうですが、特に木登りが上手で、顔が黒く、痩せていたため、「サル」と呼ばれていたそうです。

(西大寺の近くに住んでいたため、広い境内でよく遊んだそうです)

「十朱幸代の若い頃は「座頭市」「男はつらいよ」でブレイク!」に続く

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