「1単位も落とさずに大学を卒業すること」と「芸能界の仕事は実家から通うこと」と「大学の講義にしっかり出る」という条件で、両親に芸能活動を許してもらい、新幹線で(実家の)兵庫から東京に通うことになった、藤原紀香(ふじわら のりか)さんですが、やがて、兵庫と東京の往復生活に疲れて円形脱毛症になり、東京での仕事は辞めようかと思っていたそうですが、そんな矢先、実家がある兵庫県西宮市が阪神淡路大震災で被災し、人間はいつ死ぬか分からない、人生やりたいことをやらずに後悔して死にたくないと、夢への思いを強くしたそうで、東京行きを決意したそうです。

「藤原紀香は大学生の時「ミス日本コンテスト」のグランプリになっていた!」からの続き

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大学の勉強と芸能活動の両立に疲れ円形脱毛症になっていた

紀香さんは、いくつかの企業イメージガールのオーディションに合格し、1993年、21歳の時には、東レキャンペーンガールに起用されるほか、

(水着姿になる仕事だったため、再び両親の猛反対に遭ったそうですが)

1994年には、バラエティ番組「クイズ!紳助くん」で、島田紳助さんに抜擢されてアシスタントを務めるなど、関西を中心にタレントとして活動していたのですが、

東京での仕事もあり、その際は、新幹線で(実家の)兵庫と東京を往復していたそうで、学校の勉強と芸能活動の両立は思っていたよりも大変で、兵庫と東京の往復生活に疲れ、円形脱毛症になってしまったこともあったそうです。

阪神淡路大震災がきっかけで東京行きを決意

そんな紀香さんは、大学卒業後は、東京での芸能活動を辞めようかと思っていたそうですが、そんな矢先の1995年1月17日、阪神・淡路大震災が起こり、紀香さんの実家がある兵庫県西宮市も被災。

紀香さんは、1月17日は、ちょうど仕事先のハワイから帰国した日だったそうですが、モニターに震災のニュースが流れているのを見てパニックになり、頭の中が真っ白になりながら、すぐに実家に向かったそうで、電車も途中までしか動いていない中、線路づたいに歩き続けて、ようやく家にたどり着いたそうです。

すると、幸い、家族は全員無事だったそうですが、被災地を歩き、崩れ落ちた家々など、地獄のような惨状を目の当たりにすると、この下にいるのが自分だとしてもなんの不思議もないと、命を与えられたように感じたほか、人間はいつ死ぬか分からない、人生やりたいことをやらずに後悔して死にたくないと夢への思いを強くしたそうで、

友達と一緒に薬や水、毛布などをかき集め、母校の体育館などでボランティアに奔走しながら、親元から離れて東京に行くことを決意したのだそうです。

また、そこで近所の人たちと助け合いながら身を寄せ合っていると、東京から芸能人が大勢応援に来てくれ、つい先程までブルブルと震え、青白い表情だったおじいちゃんおばあちゃんたちも頬を桃色に染め、「よく来てくれたねぇ」「一人じゃないねぇ」と喜んだそうで、そんな姿を見て、自分も女優になって、ここにいる人たちのように困っている人に元気を与えられる存在になりたいと女優になる気持ちを強くしたのだそうです。

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最後まで芸能界入りを反対していた父親が東京まで車で送ってくれた

すると、お母さんは、

あんたの帰るところはここやで。ダメやと思ったら自分で引き際を決めて帰ってきなさい

と、認めてくれたそうですが、

お父さんは最後まで反対。

それでも、被災してから2ヶ月後の1995年3月、紀香さんが上京する際には、反対していたお父さんも、前日、「トラック用意したから荷物を積め」と言い、東京まで約7時間、夜通し運転してくれたそうで、

紀香さんは、照れくさくてありがとうとは言えなかったそうですが、お父さんの優しさを感じながら、無言でハンドルを握るお父さんの横顔をずっと見ていたそうで、

思えば、私はそれまで自分で洗濯機を回したこともなく、料理もしたことがなかった。親のスネをかじって私立の学校に行かせてもらって。

そんな温室育ちの私を1人で東京に出すなんて、父にしたらたまらなかったんだと思います。売れるかどうかも分からないのに。でもだからこそ、私は絶対負けられなかった。意地でも頑張ろうと思ったんです。

と、語っています。

「藤原紀香が若い頃は紀香カット(ヘア)が大ブームとなっていた!」に続く

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