東大卒で統制団体の情報局に勤務していたお父さんとピアノ教師だったお母さんのもとに誕生すると、その後、お父さんが事業に失敗し、極貧生活を送られた、吉永小百合(よしなが さゆり)さんですが、11歳の時、ラジオドラマ「赤銅鈴之助」のヒロイン公募に応募すると、見事合格します。
「吉永小百合の母親の実家は上流階級も生い立ちが悲惨過ぎる!」からの続き
幼少期は活発な女の子だった
吉永さんは、東京大学法学部の法律学科と政治学科卒で戦時下の統制団体の情報局に勤務していたお父さんと、ピアノ教師だったお母さんのもと、3人姉妹の次女として、(「東京大空襲」(死者10万人)の3日後に)東京・代々木の産院で誕生すると、
小柄な体格ながらも、男の子とばかり遊び、男の子だけしか参加できない相撲大会に出たいと駄々をこねるほど、3姉妹の中で最も活発な女の子として育ったそうです。
小学1年生の頃の吉永さん(左)。
(ちなみに、5歳年上のお姉さん(長女)は、東京教育大学(現・筑波大学)から都庁に入り、児童心理カウンセリングの世界で女性管理職、2歳年下の妹(三女)は、東京芸術大学を卒業後、小学校の先生をされています。)
父親が事業に失敗し母親が生計を立てる
しかし、終戦後、出版社「シネ・ロマンス社」を経営し、飯島正さん 、双葉十三郎さんらとともに、映画ファン雑誌「シネ・ロマンス」を刊行していた吉永さんのお父さんが事業に失敗し、さらには、「結核」にかかってしまいます。
そのため、ピアノ教師だったお母さんが、ピアノを教えるかたわら、歌を詠んでは新聞やラジオに投稿し、一家の生活を支えられたそうで、
(「朝日新聞」の「ひととき」(1956年当時)という欄に採用されれば、原稿料1500円(現在の貨幣価値に換算すると3万円)が賞金としてもらえたそうです)
米びつがほとんど空になるほど生活は苦しく、吉永さんは、一枚のスカートを2年間もはき続けなければならないほどの極貧だったそうです。
また、税務署から家財道具などを差し押さえられたこともあったそうですが、幼い吉永さんは、赤紙をベタベタと貼りにきた税務署員に対し、ハタキを手に立ち向かったそうです(笑)
ラジオドラマ「赤胴鈴之助」でデビュー
そんな苦しい家計を助けるため、新聞配達をしようとしたこともあった吉永さんですが(両親に反対され実現せず)、1956年、小学校5年生の時、医療少年院に出向いての学芸会の劇で、お母さんうさぎの役を演じると、少年達が涙を流して見てくれたことに感激し、演じることに興味を持ったそうで、
1956年12月18日、11歳の時、「少年画報」に連載中だった人気漫画「赤胴鈴之助」をラジオドラマ化するにあたっての、ヒロイン・千葉さゆり役の一般公募で、オーディションを受けると、見事合格。
(吉永さんのお母さんが、速達で吉永さんの書類を応募したそうですが、吉永さんがお母さんに頼んだのか、お母さんが勝手に送ったのかは不明)
1957年1月6日から放送されたラジオドラマ「赤胴鈴之助」で声優デビューを果たします。
ちなみに、しのぶ役は藤田弓子さんが演じられていたのですが、後に藤田さんは、
(オーディションの)最終審査に行ったら、女の子が一人いて、それが吉永小百合ちゃんだったの。もうめちゃめちゃキレイで可愛くてね。
母と2人で「1人しか選ばないんだから、これはもうダメね。帰りましょう」って帰ろうとしたらラジオの人が飛び出してきて「弓子ちゃん、これはラジオですよ。ラジオ」って言って止められたの。ラジオだと顔が見えないからね(笑)
小百合ちゃんは何て言ったって天下の美少女で、私ははっきりしゃべったのとマイクに乗る声だったんでしょうね。2人とも受かったんですよ。
女の子も男の子も2人ずつ合格して役も増やして、その4人を主役にして3年間、月曜日から金曜日まで毎日夕方放送の連続ドラマ。土曜日に学校が終わってからラジオ局に行って収録。夜は母が迎えに来てくれました。
と、吉永さんの美少女ぶりを明かされています。
(左から)吉永さん、藤田弓子さん、古宮英昭さん、山東昭子さん。
「赤胴鈴之助」でテレビドラマデビュー
こうして、「赤胴鈴之助」でラジオデビューした吉永さんは、たちまち人気を博し、1957年10月2日からスタートしたテレビ放送にも出演。(テレビ版では千葉さゆり役ではなかったそうですが)
すると、主人公の「赤胴鈴之助」がかすんでしまうほど、吉永さんの人気は凄まじく、1959年に「赤胴鈴之助」の放送終了後、同じスポンサーで新たに放送が開始した「まぼろし探偵」でも、吉永さんは引き続き出演されたのでした。
(実際、吉永さんお目当てで番組を見る視聴者が多かったそうです)
「吉永小百合の若い頃はサユリストと呼ばれ社会現象を巻き起こしていた!」に続く