少年の頃から俳優の渥美清さんに憧れ、俳優を目指して日本大学芸術学部へ進学された、笹野高史(ささの たかし)さん。しかし、大学在学中は、激化する学生運動に感化されていたようです。そんな笹野さんの、生い立ちや大学時代について、調べてみました。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?

笹野さんは、1948年6月22日生まれ、
兵庫県津名郡多賀村(現・淡路市多賀)のご出身、

身長167センチ、
体重57キロ、

血液型はO型、

学歴は、
兵庫県立洲本高等学校
⇒日本大学藝術学部映画学科中退

特技は、トランペット、

ちなみに、笹野高史は本名です。

「映画俳優」に憧れた少年時代

笹野さんは、兵庫県淡路島の造り酒屋「東洋長」に、4人兄弟の末っ子として誕生すると、「笹野のぼん」と呼ばれるほど、裕福な家庭で育たれるのですが、3歳の時には、お父さんを「結核」で、11歳の時には、お母さんを「心臓麻痺」で亡くしてしまいます。


笹野さんとお母さんの冨美子さん。

そんな笹野さんは、生前、お母さんが映画好きで、小さい時からよく観に連れて行ってもらって、夢中だったそうですが、

中学生になり、その映画の中の人が「映画俳優」という職業であることを知ると、

やってみたいな

と、思うようになったのだそうです。


小学5年生の頃の笹野さん。

渥美清に憧れる

ただ、当時の映画俳優は、足が長く、水もしたたるような、かっこいい人がなるという時代だったため、

俺なんかが映画俳優になるなんていったらきっと笑われる

と、自分の容姿に自信が持てずにいたのですが、

そんな中、1961年、NHKのバラエティ番組「夢であいましょう」が放送を開始し、出演された渥美清さんが、瞬く間に人気者となられたのを目の当たりにすると、

あんな四角い顔で細い目でね、もう世の二枚目スターたちとは全然違うタイプでしょ? ひょっとしたら俺でもイケるんじゃないかと思わせてくれたんです。

と、笹野さんは、渥美さんに憧れるようになられたのでした。


「夢であいましょう」より。(左から)坂本九さん、黒柳徹子さん、渥美清さん、田辺靖雄さん。

高校時代は陸上部と音楽部へ入部

しかし、笹野さんが高校入学後に入られたのは、「演劇部」ではなく、「陸上部」「音楽部」。(足が速かったことと、当時、男子が演劇部に入ると馬鹿にされるため)

そして、「陸上部」では、100メートル競走、200メートル競走といった短距離や、走り幅跳びを専門に活躍されていたのですが、

笹野さんは、幼い頃から腎臓と肝臓が弱く、陸上の練習中に血尿が出たことで、ドクターストップがかかってしまい、陸上部は退部。

一方、「音楽部」では、テナーサックスをされていたそうですが、音楽部でのパフォーマンスが演劇部の目に留まり、文化祭の劇に出場したことがあったそうなので、やはり、笹野さんには、この頃から演劇のセンスがあったようですね。

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学生運動~劇団「自由劇場」に入団

このような経験から、映画への情熱が再燃した笹野さんは、日本大学芸術学部映画学科を受験されると、見事合格。

(本当は、俳優コースを受験したかったそうですが、またしても、「馬鹿にされそうだから」との理由で、監督コースにマルををつけて願書を提出されたそうです(笑))

ただ、この頃、大学紛争が激化していた時期だったため、笹野さんは、演劇活動よりも、芸術学部の「芸闘委」で学生運動をされていたようで、

大学在学中の1968年、日本大学における大学紛争が激化(日大闘争)する中、バリケード(※)の中で行われた学園祭「焚祭」で、劇団「自由劇場」がシンパ(革命運動などに共鳴する人のこと)公演を行ったのを観て感化されると、劇団「自由劇場」にスタッフとして入団されたのでした。

(※1968年は大学紛争のピークで、全国の大学の8割にあたる165校が紛争状態に入り、その半数の70校でバリケード封鎖が行われたそうです)

「笹野高史の若い頃は?船乗りから俳優?渥美清の言葉でワンシーン役者に!」に続く


日本大学時代の笹野さん。

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