4歳から大相撲のファンになると、相撲遊びの中で、難しい漢字や暗算を習得し、小学校時代は、「神童」と呼ばれるほど優等生だった、内館牧子(うちだて まきこ)さん。そんな内館さんは、高校では、一転、お父さんの夢を継いでオリンピックを目指すべく、水性部に入部されたのですが・・・

「内館牧子の相撲好きは幼少期のイジメがきっかけ?小学校時代は神童?」からの続き

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早稲田大学不合格で武蔵野美術大学に

こうして、お父さんの期待を一身に浴び、中・高校と水泳部で活動されていた内館さんですが、残念ながら、内館さんには、競泳の才能はなかったそうです。

その一方で、高校生時代には、大学は早稲田大学を希望されていて、早稲田大学を目指し、猛勉強。(ご自身で「ワセダ病」とおっしゃっています)

ただ、残念ながら、早稲田大学の受験にも失敗。

そこで、ほかの総合大学だと、早稲田と比べて落ち込むからとの理由で、まったく別のジャンルだった武蔵野美術大学に進学されます。

枠にはまらない武蔵野美術大学の学生に圧倒される

すると、武蔵野美術大学に入学後は、学生が全く枠にはまっておらず、誰が見ても青いものを、見ようによれば黄色に見えると話すなど、内館さんにとって驚くようなことばかりだったそうで、

元々、私は体制派でヒエラルキーの頂上に価値を見出し、常識的で、大企業の安定が好きな人間でした。そういう価値観で18年間を過ごし、ムサビ(武蔵野美術大学)に入ってきたわけですから、周りの学生たちのことをまったく理解できません。

しかし、そういう枠にはまらない人ほど、キラキラとした独特のきらめきをもっている。さらに、そういう人は枠にはまっている人間をもちゃんと評価できる目をもっている。この深さと広さは、クリエイトしていくうえで非常に重要な感性ですよね。

そういうことを最初はまったく理解できなかった私がムサビで鍛えられ、だんだんと分かるようになっていきました。今、脚本家として、私はムサビに入って本当によかったと思いますよ。

もし、あの時代に40倍の激しい競争に勝ち抜いて難関大学(早稲田大学のこと)の文学部に入り、怖いもの知らずのまま狭い価値観で生き続けていたなら、もっと嫌な奴になっていたでしょうね(笑)。

と、学生たちの発想力や着眼点に大いに感化されたのでした。

「三菱重工業」にコネで入社

そして、武蔵野美術大学卒業後は、伯父さんが勤務していた「三菱重工業」にコネで入社。

実は、内館さんは、2、3年勤めたら、エリート社員と結婚して寿退社をするつもりだったそうで、そのため、ネコをかぶって、結婚相手を探そうと思っていたそうですが・・・

「海が見たいわ」ではなく、「相撲が見たいわ」という内館さんに、男性たちはひいてしまい、また、内館さん自身も、力士のような体格が好みだったことから、

社内で夫は見つけられないなあ

と、寿退社を諦めたそうです(笑)

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「日本相撲協会」に転職希望し何度も電話

ところで、内館さんがしていた仕事は社内報の編集で、会社もすごくいい会社だったため、仕事を頑張る気持ちはあったそうですが、当時、女性は、責任のある仕事を任せてはもらえず、

こういう仕事がしたい

と、訴えても、女性には、その部分は求めらていなかったことから、27歳くらいの頃、転職を考え始めます。

ただ、転職と言っても、内館さんの得意なことといえば、相撲のみ。

そこで、「日本相撲協会」に電話をかけて、

床山(力士の髪を結う人)になりたい

と、訴えたそうですが、女性はダメと断られてしまいます。

それでもあきらめきれず、「馬簾(ばれん)」(化粧まわしの先についている房)を女性が作っていると聞きつけると、またもや「日本相撲協会」に電話。

しかし、これも断られてしまい、今度は相撲記者の道を考え、スポーツ新聞や専門誌に片っ端から電話をされたのですが・・・

やはり、全部断られてしまい、

どん詰まりだなあ

と、落胆されたのでした。

「内館牧子の若い頃は?シナリオライターの原点は菅原文太?」に続く


OL時代の内館さん。

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