1966年7月4日、日本に引き続き、フィリピンでコンサートを行った「The Beatles」は、10万人もの観客動員数を記録するなど、相変わらずの人気ぶりを見せつけたのですが・・・

「ビートルズ唯一の来日は厳重警備で静か過ぎる公演だった!」からの続き

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フィリピンでも熱狂

1966年7月3日、日本公演を終えた「The Beatles」は、次の公演地であるフィリピン・マニラへと向かうと、

翌日の7月4日、マニラ「リサール・メモリアル・スタジアム」(野外)で行われた公演は、観客動員数がこれまでで最大となる約10万人を記録。

「The Beatles」はマニラでも熱狂的に迎えられたのですが・・・


マニラに到着した「The Beatles」

イメルダ・マルコスの歓迎パーティーを辞退

実は、この日の公演後、「The Beatles」は、当時の大統領夫人イメルダ・マルコス主催の歓迎パーティーに招待されていたのですが、マネージャーのブライアン・エプスタインさんが、メンバーには知らせず、この申し出を丁重に辞退。

しかし、現地のプロモーターは、大統領夫人の招待を断ることなど許されないと、(自らのメンツを保つために)断られた後も何度も何度も出席依頼を続けたうえ、なんと、パーティーの直前まで、「The Beatles」が欠席する意思をイメルダ夫人側に伝えていなかったそうで、

そんな事情を知らない「The Beatles」のメンバーは、当然、パーティーを欠席したのでした。

イメルダ夫人激怒で国民が暴徒と化す

すると、「The Beatles」が自分の招待をすっぽかしたと思い込んだイメルダ夫人は激怒。

7月5日には、

ビートルズが勝手に約束を破った。会えるのを楽しみにしていた子供たちが可哀想だ。

などと、新聞等のマスコミを総動員させて報道させ、

テレビでは、「裏切られた!」と絶叫するイメルダ夫人が映し出され、フィリピン各紙には、「ビートルズ、大統領一家を侮辱!」などといった記事が大々的に掲載されたことで、「The Beatles」に対する激しい怒り・反感はフィリピン中に広まったのでした。

(当時、マルコス政権は国民に圧倒的な支持を受けていました)

この状況に、「The Beatles」は、すぐに帰途に就こうとするも、空港では、怒りに満ちた多数の市民に取り囲まれてしまい、こづきまわされ、もみくちゃにされ、トマトまで投げられ、さらには、市民たちだけではなく、警官や兵士までもがメンバーに敵意を向ける事態にまで発展。

(到着時とは違って、特別な扱いを受けることもなく、一般乗客と同じようにチェックインしたそうです)

ようやく、飛行機に乗り込むも、今度は離陸許可が下りず、最終的には、コンサートの収入をすべて当局に渡すという条件と引き換えに離陸許可が下り、フィリピンを離れることができたのでした。

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メンバーらのコメント

ちなみに、この事件について、関係者の一人は、

スタッフのマル・エヴァンスが死を覚悟する発言を口にした。この一件によってエプスタインが体調を崩した。あんな狂った場所には二度と行きたくない。

と、コメントしているほか、

ジョージ・ハリスンさんは、

彼らは復讐のために僕らを待っていた。危なそうな奴らが30人くらいいて、銃を持っていたんだ。明らかに僕らの最悪の目に合わせるために用意していたんだ。

と、命が狙われていたことを証言。

ポール・マッカートニーさんは、1986年、マルコス大統領失脚後、

隠された真相が明らかになった。(自分達の無実を証明できた)ビートルズは、マルコス大統領に反抗した唯一のロックグループさ。

と、コメント。

リンゴ・スターさんは、

フィリピンは大っきらいだ

と、コメント。

そして、「The Beatles」の関係者の一人である、ニール・アスピノールさんは、

この事件はビートルズからツアーへの意欲を奪った一因

と、述べており、その後、「The Beatles」がライブ活動を停止する一因となったと言われています。

「ビートルズが二度とライブをしなくなった原因はジョンレノン?」に続く

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