一時期、「武田鉄矢の母」として講演会などに引っ張りだことなっていた、母親・イクさんとの関係はよく知られている、武田鉄矢(たけだ てつや)さんですが、ほかのご家族との関係はどうだったのでしょうか。
「武田鉄矢は金八3番手だった?水戸黄門ほか出演ドラマ映画は?」からの続き
著書「西の窓辺へお行きなさい「折り返す」という技術」を発表
武田さんは、2011年、著書「西の窓辺へお行きなさい「折り返す」という技術」を発表されています。
武田さんは、2011年3月に起こった東日本大震災と、その半年後の10月にされた自身の心臓病手術をきっかけに、
人生の登り坂はひとつだけど、降りる道は人それぞれの数だけある
と、考えるようになったそうで、この本には、そんな武田さん流「人生の降り方」が紹介されているのですが、
それ以外にも、初めて、お兄さんとの関係について明かされています。
12歳年上の優秀な兄にコンプレックス
実は、武田さんは、5人兄弟の末っ子で、次男として誕生しているのですが、長男だったお兄さんは、武田さんより12歳も年上だったため、
年の差は圧倒的でした。だから、ぼくは兄貴から一歩引いて、“そうですか”とか“よかったです”とか常に尊敬語を使っていました。一緒に遊んだという思い出はひとつもありません。
と、幼い武田さんにとって、お兄さんは他人のような存在だったそうです。(お兄さんと武田さんの間にはお姉さんが3人いらっしゃいます)
そんなお兄さんは、成績優秀で早稲田大学に進学し、卒業後は地元の広告代理店に就職と、周囲がうらやむようなエリートコースを順調に歩んでいたことから、お母さんのイクさんは、いつもお兄さんを誇りに思い、とてもお兄さんをかわいがっており、
武田さんは、
自分のことも見てほしい
と、いつも思っていたのでした。
武田鉄矢の成功で転落する兄
しかし、その後、武田さんは成長し、地元の福岡教育大学教育学部に進学するも、大学を休学してフォークシンガーを目指して上京すると、1973年には、自身が作詞した「母に捧げるバラード」が大ヒット。
このことがきっかけで、兄弟の立場が逆転し始めます。
お兄さんは、東京で成功した弟に負けまいと、会社を辞めて独立されるのですが、事業はことごとく失敗し、多額の借金を抱えると、
武田さんを勝手に保証人にしてお金を借りるほか、実家を勝手に借金の担保にするなど、数々のトラブルを武田家に持ち込み、転落の一途。
それでも、お母さんのイクさんが「武田鉄矢の母」として一躍有名になり、テレビ出演や講演などに引っ張りだことなったことで、お兄さんはイクさんのマネージャーとなって生計を立て、しばらくは平穏な日々が続いていたのですが・・・・
母の死でさらに転落する兄
1998年秋、イクさんが「肺動脈血栓」のため他界。
すると、武田家の財産は自分が相続できると思っていたお兄さんは、イクさんが既に実家の所有権を娘たちに譲っていたことから、お姉さんたちを、
お母さんをだまして相続手続きをした
と、妄想まじりに罵(ののし)り、
その後は、昼間からお酒を飲む毎日で体を壊し、イクさんの三回忌を迎える前に「食道ガン」を患って手術を受けることに。
そして、手術は成功するものの、術後もお酒がやめられず、そのうえ、
鉄矢っていう名前はおれがつけた
あいつはおれのおかげで有名になれた
と、周囲に言い回るなど、転落の一途をたどったのでした。
兄が他界
以来、ついに、武田さんはお兄さんと連絡を取らなくなってしまったのですが、5年後の2005年冬、武田さんのもとに、お兄さんの奥さんから、突然、連絡が入り、
一度でいいから、最後くらい仲のいい兄弟でいてください…
と、涙ながらに訴えられたそうで、
お兄さんとの別れを直感した武田さんは、翌日、お兄さんの入院する博多の病院を訪ねられると、ベッドの上に横たわっていたお兄さんは、かつての面影がないほどやせ細りつつも、元気に振る舞い、武田さんを嬉しそうに迎え入れたそうですが・・・
それから2ヶ月後、お兄さんは、「末期ガン」のため、他界されたのでした。
ちなみに、武田さんは、そんなお兄さんについて、
ぼくは兄貴にコンプレックスを持っていたんです。母からはかわいがられていたし、優等生だったし…兄貴を憎み続けてもいた。
でも、そのコンプレックスが自分を成長させて、ここまで登ることができたんだと思えるようになったんです。兄貴が、今のぼくをつくってくれたんだってね。
と、後に語っておられます。