テレビドラマ、映画、舞台と様々な作品に出演し、渋い演技が魅力の俳優、橋爪功(はしづめ いさお)さん。今回は、そんな橋爪さんの生い立ちから、俳優になられるまでの経緯についてご紹介します。

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年齢は?出身は?身長は?学歴は?本名は?

橋爪さんは、1941年9月17日生まれ、
大阪府大阪市東住吉区のご出身、

身長168センチ、
体重63キロ、

血液型はO型、

学歴は、
大阪市立東田辺小学校
⇒大阪教育大学附属平野中学校
⇒大阪府立天王寺高校
⇒(転校)青山高校卒業

ちなみに、「橋爪功」は本名です。

(日本大学・アメフト部の監督である橋詰功さんは、同名異字の別人です)

父親は「大阪電気商会」の重役

橋爪さんのお父さんは、橋爪徳松といい、和歌山県の海南出身で、極貧の家庭に生まれたそうですが、頭が良かったことから、地元の篤志家が支援をしてくれ、中学校を二年飛び級して大学へ進学されると、

(徳松さんは、中学校まで約8キロ、毎日歩いて通われたそうですが、学校までの中間地点の松の木でよく”大”をしていたことから、地元の人はその松の木を「徳松の松」と呼んだそうです)

大学卒業後は、天王寺中学校で化学の教師をされていたそうですが、何を思われたのか、突然、教師を辞め、東北大学の法科に入り直されたそうです。

その後は、満州鉄道関係の仕事で中国に渡ったこともあったそうですが、汚職で一度、刑務所に入ったこともあったそうで、

(お母さんによると、お世話になった人をかばって服役したとのこと)

それから1年半後に出所されると、「大阪電気商会」を紹介してもらい、「大阪電気商会」の重役になられたそうです。

ちなみに、橋爪さんは、そんな不思議な経歴を持つお父さんについて、

小柄ですし、男前でもなかったけど、ちょっと色気のある男だった。よく歌舞伎に連れてってくれた。いつも苦虫噛みぶしたような顔していた。

と、語っておられました。

幼少期を芸術的な環境で過ごす

さて、そんなお父さんと、お父さんよりも13歳年下の愛人だったきぬさんの間に、3人兄弟(兄と姉)の末っ子として、大阪・東住吉区の路地奥の上下に二間、内風呂と小さな庭がある借家で、橋爪さんは誕生されるのですが、

物心ついた時から、お父さんが会社から本宅(お父さんと本妻の家)に帰ってくる時間に、11歳年上のお兄さんと、しょっちゅう、本宅にお土産を取りに行かれていたそうで、愛人の子どもということで、嫌な思いをしたことはなかったそうです。

また、学生演劇をしていたお兄さんに誘われ、3歳で大阪の劇場で初舞台を踏まれるほか、終戦後、海外から名画が日本に入ってくるようになると、夢中で観に行くなど、芸術的な環境で育たれたそうです。

(お兄さんは、一旦、伯父さん(お母さんのお兄さん)の籍に入った後、お父さんの籍に入ったため、当初は、橋爪さんが、お母さんの戸籍上では長男になっていたそうです)

東京に転校~芝居に目覚める

そんな橋爪さんは、小・中学校ともに生徒会長を務めるほど優秀で、かつ、野球に打ち込むなど、文武両道の生徒だったそうですが、

高校1年生の時、大阪から東京に引っ越しされ、東京都立青山高校に転校すると、東京という大都会に、カルチャーショックを受けたそうです。

また、文化祭で演劇部のお芝居を観たことがきっかけで、お芝居の魅力に惹き込まれ、演劇部に入部されたのでした。

(橋爪さんが中学2年生の時、お父さんが他界されています)

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「文学座付属演劇研究所」の第1期生に合格

こうして、高校時代はあまり勉強をしなかったため、大学進学は諦めたそうですが、ちょうどその頃(1961年)、「文学座」が研究生を募集している記事を新聞で見つけ、応募されると、オーディションでは、難関を突破して、見事合格。

(実はこのオーディション、「文学座」が12年ぶりに行ったオーディションだったそうです)

そして、最初の授業では、いきなり、

橋爪くん、ここ読んでごらん

と、「文学座」のスターだった芥川比呂志さんに当てられたそうで、

橋爪さんは、

俺の名前覚えているじゃん。俺、そんなに優秀なのか

と、勘違い。(実は、芥川さんは全員の名前を覚えていたそうです)

やがて、橋爪さんは、

何も知らないやつがいきなり文化や芸術に触れたわけですから、夢中になりますよ。それだけで文学座に入ってよかった。

と、俳優としても演出家としても非凡な才能を持つ芥川さんに心酔していったのでした。

(※芥川比呂志さんは、作家・芥川龍之介さんの長男)

「橋爪功の若い頃は芥川比呂志と共に劇団雲と演劇集団円に!」に続く

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