実家のニシン漁が立ち行かなくなり、農業に転業するも、困窮から抜け出せずにいた、北島三郎(きたじま さぶろう)さんは、ついに、18歳の時、歌手になるべく、東京の親族を頼って上京します。

「北島三郎の生い立ちは?高校時代はのど自慢で鐘2つだった!」からの続き

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18歳で上京

高校の時、出場した「NHKのど自慢」函館大会で、司会の宮田輝さんからかけられた優しい言葉が心にしみ、

(歌手になって)両親を楽にさせたい

との思いから、17歳で上京することを決意し、高校を中退した北島さんは、18歳の時、東京の親族を頼って上京するのですが、

北海道を離れる時、お父さんが桟橋まで見送りに来てくれ、船が離れると、

頑張れー、体に気を付けろー

と、大きな声で叫んでくれたそうで、

(今でもその声をはっきりと覚えているそうです)

後に北島さんは、その時のことを、

歌手を目指して津軽海峡を渡ったんです。当時は、北海道を捨てる覚悟がないと渡れない海峡でした。どんなことがあっても、ちゃんとした形で帰ってこようと。津軽海峡には風と波だけではなく、そういう厳しさがありました。

と、語っておられました。

上京後は流しの歌唄い

こうして、上京した北島さんは、音楽の専門学校に通い始めるのですが、歌謡曲を歌いたかったため、ほどなくして、「流しの演歌師」として、渋谷で活動を開始。

ただ、

恥ずかしくてねえ、もし、こんなところで学校の友達やら、知ってる人に会ったらどうしようかと・・・

と、恥ずかしさを忍んでの活動だったうえ、

流しでは3曲100円で歌っておられたのですが、流しに対する世間の風当たりは強く、一時期はそんな世間に反抗し、ケンカをしては、警察のお世話になっていたそうです。

そんなことから、何度も北海道に帰りたい、と思われたそうですが、東京から北海道に帰るには、青函連絡船だけでも4時間半もかかり、その他の交通時間も合わせると、現在の日本とアメリカくらいの時間がかかったそうで、

だから、逆に、ふるさとが遠くてよかった。辛くて厳しい時代が長くてよかった。神様か、ご先祖様か、うんと今、寒い思いをしておけと、俺に与えてくれた。

この年になって、この道を歩かせてもらえるのは、あのときがあったからですよ。

と、簡単には帰れないという状況から、流しを続けることとなったのでした。

船村徹と運命の出会い

そして、そんな生活が7年も続いた1960年のある日、流しをやっていた北島さんに、ぽんっと1000円をくれたお客さんがいたそうで、

驚いた北島さんは、

30曲歌わないといけないの

と、思いつつも、

ありがとうございます!

と、言って、1曲歌うと、

その人から、

明日ちょっと新橋の喫茶店で待っているから来なさい

と言われたのだそうです。

実は、その人は、日本コロンビアの芸能部長で、北島さんの評判を聞きつけて来ていたのですが、翌日、北島さんが指定された新橋の喫茶店に行くと、作曲家の船村徹さんを紹介されたそうで、

こういうちょっとした出会いなんだけども、わずかな出会いが、人生で物凄い大事な出会いになってくる。

と、後に北島さんが語る、北島さんの人生を変えることとなる運命の出会いを果たしたのでした。

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デビューできず、ギター漫才も?

こうして、その日以来、北島さんは、船村門下生となり、レッスンに明け暮れるのですが・・・

船村さんが、北島さんを連れてレコード会社に売り込みに行ってくれるも、時代はロックンロールやロカビリーとなっており、北島さんのような演歌や歌謡曲の歌手は相手にされなかったそうで、

なんと、船村さんは、なかなか、デビューの機会を得られない北島さんに、自ら台本を書き、もう一人の弟子と組ませて、ギター漫才をさせたのです。

ただ、知り合いの興行師に頼んで、東北の1ヶ月公演の前座をさせてもらうも、3日目の夜中には、使い物にならないと、帰らされてしまったそうで、

北島さんとしては、歌でダメ出しされるならまだしも、やりたくもないギター漫才なんかでダメ出しされ、

何とか歌の方でやらしてもらいたい

と、お願いされたといいます。

「北島三郎のデビュー曲ブンガチャ節は卑猥で放送禁止となっていた!」に続く

文化勲章を受けた船村徹さん(左)と北島さん(右)。

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