1961年、高校卒業後、役者を目指して上京した、小松政夫(こまつ まさお)さんですが、生活のため、アルバイトをすると、持ち前の明るさと何でもできてしまう器用さで、行く先々で社長から気に入られます。

「小松政夫は正社員を断って日本一の喜劇役者を目指し上京していた!」からの続き

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生花店では1本10円の菊を15円で売って社長を喜ばせる

ハンコ屋では、配達員ながら、見よう見まねでハンコが彫れるようになったことからハンコ職人となると、娘との縁談や会社を継ぐことを打診されるほど、社長に気に入られた小松さんは、

生花店でアルバイトをした際にも、社長から菊を1本10円で売るように言われていたところを、1本15円で売って、社長を喜ばせたそうです。

(仕入れ値が5円だったため、1本10円で売っても5割もうかる値段だったそうです)

花の名前を知らなかった

とはいえ、小松さんは、花の名前はまったく知らなかったそうで、

お客さんから、

このバラいくら?

と、聞かれると、

ちょっと今、忙しいからお手にとって見せてください

と、ウソを言い、お客さんにバラを手に取らせ、そのお客さんが手に取ったバラを見て、

これがバラなんだ

と、分かるレベルだったのだそうです。

生花店を退職

こうして、そんな小松さんのおかげで、生花店の売上は上々で、社長に気に入られた小松さんは、支店を任せるとまで言われたそうですが、

新しい支店の完成直前に、社長の長男が交通事故で他界したそうで、社長はそのショックで廃業。

小松さんは生花店を辞めざるを得なくなったそうです。

優秀な営業マンで「横浜トヨペット」に引き抜かれていた

その後も、小松さんはアルバイトを転々とし、1962年には、複写機販売会社「リコー」にセールスマンとして就職されたそうですが、ここでも、持ち前の明るさと話術から好成績を収めたそうです。

そして、ある日のこと、小松さんが、横浜の自動車販売会社「横浜トヨペット」に、コピー機のセールスに行き、

話がうまかったっていうかね(笑)。どんなセールスをやっていたかというと、女性社員を12人ぐらい集めて、お昼になると、「どうぞどうぞ。お昼食べてださい。私がお茶入れますから。」と言って、給湯室に行くと湯のみ茶わんが色々と置いてあるじゃないですか。

それにどんどんお茶を入れて「はい、どうぞ」って言うと、「それ山本さんよ」とかって言われて、そうすると「あっ、山本さんね。山本さんってどなた?」「はい、山本です」「山本、山本、インプット!」って(笑)。

そんな感じで次々に「インプット!」ってやっていって、その日のうちに名前を全部覚えちゃうの。それで名前を呼ぶから、みんな親近感というか、そんなものがあったんじゃないですか。だからそれがやっぱり上手な生き方だったと思いますよ(笑)

と、やっていたそうですが、

その様子を見ていた、当時34歳の営業部長に見込まれ、セールスマンとして引き抜かれたそうで、ここでも、小松さんは、当時、大卒の初任給1万円だった時代に、月給12万円も稼ぐほどの営業成績を残されたそうで、

自家用車を持つことが高嶺の花で、ラーメンが1杯40円、サラリーマンの平均年収が約45万円の時代に、月22台も売ったことがあったそうで、小松さんの稼ぎがいかに凄まじかったかが分かります。

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役者になる夢を諦めていた

ただ、この頃の小松さんはというと、がむしゃらに働いていたそうで、その合間に、大ファンだった植木等さんの映画(「スーダラ節」が大ヒットしていたそうです)を観るほか、

日曜日になると、大枚1万円を払って、カラーテレビがあった(当時、カラーテレビはまだ一般家庭に普及していなかったそうです)ビアホールに行っては、午後6時から「てなもんや三度笠」、6時半から「シャボン玉ホリデー」を観ることが唯一の息抜きで、役者になるという夢は、すっかりあきらめてしまっていたのだそうです。

「小松政夫は植木等の付き人に応募者600人の中から採用されていた!」に続く

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