1966年に、映画監督の篠田正浩さんと結婚されると、その後は、夫婦二人三脚で映画を制作し、女優として不動の地位を確立された、岩下志麻(いわした しま)さん。今回は、そんな岩下さんご自身が特に思い入れのあるという作品をご紹介します。

「岩下志麻の若い頃は清純派女優として人気を博していた!」からの続き

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出産した頃は女優を続けるか悩んでいた

1964年、映画「五瓣の椿(ごべんのつばき)」で、これまでの清純派路線から一転、艶のある演技を披露し、清純派女優からの脱皮に成功すると、

1966年には、夫で映画監督の篠田正浩さんとともに「表現社」を設立し、篠田さんの演出のもと、女優として大きな飛躍を遂げられた岩下さんは、

その後も、篠田さんとコンビを組んだ「無頼漢」(1970)、「卑弥呼」(1974)などで、映画界における地位を不動のものにされるのですが、

1973年に、長女を出産されると、

子供ができたころは自分の表現力に限界を感じていた時期でもありました。何の映画ということはないのですが、「ああやればよかった、こうすればよかった」と後悔することが多くなりました。

それと、子供がかわいい盛りなのに他人に預けて仕事に行かなければならない、その母性の部分がなかなか自分の中で割り切れずに悩みました。2年ぐらい少しうつ病っぽくなってしまって。

と、役に深くのめり込むことができなくなってしまったといいます。

「はなれ瞽女おりん」で日本アカデミー賞主演女優賞

ただ、そんな中、1977年、映画「はなれ瞽女(ごぜ)おりん」で、盲目の女性・おりん役を演じられると、「第1回日本アカデミー賞主演女優賞」を受賞されているのですが、

私は暗闇恐怖症だったので、暗闇に慣れるために目をつむって食事をしたり、お化粧したり、家の中を歩いたりして、役に入り込んでいきました。

篠田の演出、宮川一夫さんのカメラ、共演者の原田芳雄さんや皆さんに助けられて「おりん」を演じ切ることができ、達成感がありました。その体験で悩んでいた壁を乗り越えられて、「やっていこう、女優を続けるべきだ」と覚悟ができたのです。

と、この作品で、6ヶ月という長期ロケの間、子どもを置いていかなければならない辛さを乗り越え、結果を出したことで、女優業を続けようと思えるようになったのだそうです。


「はなれ瞽女おりん」より。

「極妻の妻たち」で新境地開拓

そんな岩下さんは、その後、メジャー作品に戻り、1982年、五社英雄監督作品「鬼龍院花子の生涯」での極道の妻役で、貫禄のある演技を披露されると、

1986年には、主演映画「極道の妻たち」が、

あんたら覚悟しいや!

の決め台詞とともに、拳銃をぶっ放す貫禄ある姿や、意地を貫き通す姿が、多くの女性たちから熱狂的な支持を得て、映画は大ヒットを記録。


「極道の妻たち」より。成田三樹夫さんと岩下さん。

その後、この映画は、

「極道の妻たち 最後の戦い」(1990年)
「新極道の妻たち」(1991年)
「新極道の妻たち 覚悟しいや」(1993年)
「新極道の妻たち 惚れたら地獄」(1994年)
「極道の妻たち 赫い絆」(1995年)
「極道の妻たち 危険な賭け」(1996年)
「極道の妻たち 決着(けじめ)」(1998年)

とシリーズ化され、「極妻=岩下志麻」の図式が出来上がるほどの、当たり役となったのでした。

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「本物」から挨拶されていた

ちなみに、岩下さんは、

あの極妻たちの持っている潔さは私と共通点があったので演じ続けることができたと思います

「極妻」は自分の財産になる作品になったと思うんです。こんなに長いシリーズ物をやらせていただいたのは、女優生活で初めてなんですね。年代的にもう中年になってから、こういう主演作に巡り逢えるとは思いもよらなかった。

と、語っておられるのですが、

2018年、トーク番組徹子の部屋」に出演された際には、

病院にある方をお見舞いに行ったところ、「パパパパッ」と(偶然居合わせた)黒服の男性が並んで最敬礼してくださって。わたしびっくりしちゃったんですけど、その前を悠然と歩きました

新幹線でもずいぶん挨拶されました。本物さんに。「知ってる方かな?」と思うと、隣にわたしと同じような着物の着方をして、同じヘアスタイルでピアスしたりしてて。

愛人だか奥さんだか知りませんけど、「姐さん」で。立って最敬礼してくださって。わたしも丁寧にご挨拶しましたけど。

と、「本物」から挨拶されたことが何度もあったことを明かされており、岩下さんの「極妻」での演技は、「本物」も惚れ惚れする演技だったようですね♪

「岩下志麻のデビューからの出演ドラマ映画CMを画像で!」に続く

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