先生に褒められたご褒美に、東京で映画を観ることをお父さんに許されると、実際には、映画ではなく「日劇」の舞台を観ることになるも、その色彩豊かなステージに魅了されたという、なべおさみさんは、やがて、映画に夢中になり、役者に憧れるようになるのですが、小学5年生にして驚くべき行動に出ます。

「なべおさみの幼少期は小柄も負けん気が強い頭の良い少年だった!」からの続き

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小学生の時に役者に憧れる

1949年、小学4年生の秋、先生に褒められたご褒美にお父さんに東京に招待され、「日劇」の色彩鮮やかな舞台や銀座の光り輝くネオンに魅了されたなべさんは、翌年の1950年、小学5年生になる春には、折よく、疎開を終え、東京に戻ったそうですが、

4歳で疎開したなべさんには東京の記憶がなかったことから、東京のすべてが目新しく、すぐに映画に心を奪われたそうで、

(以降5年間は映画に夢中で、なんと、毎年300本近い映画を観たそうです)

小学校6年生の時には、ぼんやりと、

この世界で役者になって生きていこう

と、思うようになったそうです。

ただ、東京が戦後間もなく、焼け跡だらけだった当時、一般家庭の子どもが役者になりたいなんてことは、夢物語以外の何物でもなかったそうで、

周りから、「馬鹿か!」と一蹴されるに決まっていると思ったなべさんは、「役者になりたい」という気持ちは、家族にはもちろん、友達にも誰にも言わず、固く心にしまい込んだのだそうです。

家業を継がされないよう小学5年生にして働くことを考えていた

そんななべさんですが、お父さんと一緒に会社を経営していた伯父さん(父の兄)が、

おさみは大学を出たら、新潟工場と糸魚川工場を任せよう!

と、時々口にしているのを聞いていたことから、

煙突屋かスレート屋の工場長にならされてたまるかと、そうなる前に、いつの日か家を出る時のために貯金しようと、小学5年生にして、働くことを考え始めたそうです。

(お父さんは、幼くして両親を亡くしているのですが、兄であるこの伯父さんが親代わりとなって、お父さんを含む4人の弟妹を育てられたそうで、お父さんと伯父さんは、兄弟というよりは、親子のような関係だったうえ、伯父さんはお父さんにとても優しく、お父さんもいつも伯父さんに忠実だったそうで、なべさんは、お父さんが、この伯父さんの提案を断るとは思えなかったそうです。)

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小学5年生にして「金偏・糸偏景気」の噂から鉄屑集めを思いついていた

すると、そんな中、1950年6月25日(日)、小学5年生だったなべさんは、五反田に新しくできた映画館に出かけていたそうですが、その帰りの電車の中で、会社員が、朝鮮で戦争が勃発することと、その影響で、「金へん・糸へん景気」が来ると話しているのを偶然聞いたそうで、

(※朝鮮戦争が始まると、「国連軍」として参戦していた在日占領アメリカ軍が、武器弾薬や軍用サービスを日本で調達することになるため、「特需」と呼ばれる戦時需要が発生し、軍需関連産業の金属・機械・繊維工業、いわゆる「金偏」や「糸偏」の字がつく産業に好景気がもたらされるということ。)

近所で鉄屑(てつくず)屋を営んでいた、在日朝鮮人の金井さんという人に確かめに行ったところ、

金井さんは、

お前、と(ど)して、そんな話、知ってるか?

と、驚きつつも、自分たちがもう半年も前から、あらゆる金属の廃品回収を命じられていることを教えてくれたそうで、

なべさんが、

金井さん、僕が持って来たら買ってくれる?

と、尋ねたところ、

金井さんは、黙ってなべさんの頭に手を押し付け、やがて、なべさんの目の高さまでかがんで、にっこりと笑ったそうで、

なべさんは、金井さんのこの行動に、子供心にも、「男の約束」が暗黙のうちに交わされたことを感じたのだそうです。

「なべおさみは小5にして鉄屑集めでお金を稼ぐことに夢中になっていた!」に続く

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