1971年、ファーストシングル「水色の恋」が大ヒットを記録すると、その後も、立て続けにヒット曲を連発し、瞬く間にトップスターに駆け上った、天地真理(あまち まり)さんですが、1975年頃から徐々に人気が低迷すると、1977年には、緊急入院をきっかけに、そのまま芸能活動を休止されていました。

「天地真理が若い頃は「水色の恋」が大ヒットしていた!」からの続き

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甲状腺機能障害の治療のため芸能活動を休止

1970年代前半には、「天地真理ブーム」を巻き起こすなど、一斉を風靡した天地さんですが、1975年頃から徐々に人気が低迷していくと、追い打ちをかけるように、1977年1月23日には、「甲状腺機能障害」のため緊急入院。

約1ヶ月後の2月20日には退院するものの、病状は思わしくなかったようで、休養生活を続け、そのまま芸能活動も休止されます。

復帰会見「天地真理を励ます会」

しかし、約2年半後の1979年5月1日、「「森田公一とトップギャラン」結成10周年記念コンサート」に招かれ、久しぶりに公の場に姿を表すと、

(※森田公一さんは、「水色の恋」など、天地さんの数々のヒット曲を手がけられた作曲家であり歌手)

1979年6月7日には、森田さんと女優の森光子さんが発起人となって、「天地真理を励ます会」(復帰会見)が開かれ、

その席で天地さんは、

学生時代の延長みたいな、映画へ行ったりとか、コンサートへ行ったりとか、買い物に行ったりとか、美容院行ったりとか、それに水彩画を描いたり、京都に独り旅もしました。ごく平凡な生活をしていましたよ。

(テレビを観るとき)洋画劇場と歌番組のどっちがいいかといえば、洋画劇場を見ましたね。でも、焦りを感じたということではないんですよ。昔の私もそうだったけれど、みなさん、がんばってるなって感じだけで。

と、約2年半の休養中の生活について明かしつつ、

私、ずうっと(東京音楽学院で)レッスンを受けていたんです。そんな時とか、街を歩いていて、「天地真理さんですね」と、ファンの方に声をかけられた時なんか、あ、私には歌しかないな、とすごく思いましたね。

今は50キロ弱になりました。ここまで落とすのに、ずいぶん時間がかかったわ。ケーキを食べないようにしたり、ゴハンを食べないようにするとか、それにダンスで汗を流したり……

と、その間、支援を続けてくれていたファン(ファンクラブは存続していたそうです)に感謝の言葉を述べ、復帰に意欲を見せたのでした。

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芸能活動を再開

そして、同年10月10日には、森田さんのラジオ番組「ラジオリクエスト大賞・森田公一の青春ベストテン」へのレギュラー出演がスタートすると、10月15日には、復帰コンサート「天地真理 明日への出発(たびだち)」を開催。

(「ファンとより近い会場で」という天地さんの希望により、400席のホールで行われたそうですが、収容数を100名も超えるファンが駆けつけたそうです)

コンサートには、森田さんが特別ゲストとして駆けつけるほか、客席では森光子さんが見守るなど、ここでも、森田さんと森さんのバックアップを受けると、

同年12月には、復帰第一弾シングル(通算20枚目)「愛・つづれ織り」(森田さん作曲)を発売されたのでした。


「愛・つづれ織り」

「天地真理が休養中は「発狂説」が飛び交っていた!」に続く

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