1988年5月、入浴中に左胸にしこりを感じ、大学病院で検査を受けると、医師から「乳ガン」の疑いがあることを告げられた、音無美紀子(おとなし みきこ)さんは、その後、精密検査の結果、やはり、「乳ガン」であることが確定。左胸全摘手術を受けていたといいます。
「音無美紀子は息子の難病に悩み「統一教会」に入信していた!」からの続き
乳ガンと診断される
医師から「乳ガン」の疑いが強いと告げられた音無さんは、その日の午後、超音波、マンモグラフィなどの精密検査を受けると、やはり、結果は「乳ガン」だったそうで、
友人に勧められ、翌日、セカンドピニオンを受けるため、慶應義塾大学病院を受診したそうですが、やはり、結果は同じ、「乳ガン」(ステージ1)だったそうです。
左胸を全摘手術
そして、T大学病院では、温存手術も可能かもしれない、と言われていたことから、音無さんとしては、温存手術を受けたい気持ちがあったそうですが、
それでは、再発の可能性があり、その危険性をできる限り排除するためには、全摘手術のほうがいいという村井さんの助言もあり、最終的には、全摘手術を受けることを決意したそうで、
(また、当時は、早期の乳ガンでも全摘が標準だったそうです)
音無さんは、慶應義塾大学病院に入院し、1988年9月、左の乳房ほか胸の筋肉や脇の下のリンパ節まで切除するという、10時間に及ぶ全摘手術を受けられたのでした。
手術後は積極的にリハビリに励み無事退院
すると、手術は無事に成功し、術後は背中が割れるような激しい痛みが3日間続くも、
(背中に転移したのでは・・・と不安がよぎるほどの痛みだったそうです)
4日目には痛みが引き、それと同時に食欲が戻り、以前のように元気が戻ってきたそうで、6日目には抜糸をし、その翌日から、左腕を上げていくリハビリを開始。
(病院の壁に自分の身長と同じ高さの目盛りのついた紙を貼って、その横に立って少しずつ左腕を上げていったそうです)
この頃の音無さんは、
1日も早く日常生活に戻りたいという気持ちが強かったので、一所懸命でした。退院するまでに絶対ここまで手を上げられるようにするぞという覚悟のもとでやっていましたよ。看護師さんが今日はもうやめておいたほうがいいと言っても、あと5ミリとか言って頑張りましたもの。
でも本人がそれくらいの強い意識を持って取り組まないと健康は取り戻せませんし、リハビリをしっかりしておかないと結局あとで辛い思いをするのは自分ですからね。おかげで退院するときにはずいぶん腕が上がるようになっていました
と、なんとしても病気を治し、健康を取り戻して元気に生きていきたいという前向きな気持でみなぎり、
夫の村井さんにも、
乳房温存療法にしないでよかった、結果的にはベストの選択だった
と、語るなど、術後の経過は順調だったそうで、
(村井さんいわく、この頃の音無さんは「輝くような笑顔だった」そうです)
そんな懸命なリハビリの甲斐あって、同年9月27日、音無さんは無事退院されたのでした。
乳ガンであることを伏せていた
ちなみに、「乳ガン」であることをマスコミに嗅ぎつけられ、家族を含め、興味本位で書きたてられることを恐れた音無さんは、
慶應義塾大学病院に入院された際には、友人に名前を借りて病室のドアにその友人の名前の名札をかけ、病室を出る時は、必ず顔が隠れるくらい大きなマスクをつけ、入院前や退院後に外来の待合室で自分の番を待っている時は、ひたすらうつむういたまま本を読み、
知り合いの女優の母親から「音無さんではないですか」と声をかけられた時も、健康診断に来ていると言ってごまかすなど、徹底して、「乳ガン」であることを伏せていたそうで、
もともと強がりなほうだったから、同情されたり特殊な目で見られるのが嫌だったんです。それに当時は乳ガンというと、おっぱいがないというイメージだったでしょ。
病気のことを公表して、そういう自分の姿を人に想像されるのが嫌だったし怖かったんです。女優というより、女としての見栄だったかもしれませんね
と、明かされています。
「音無美紀子は乳ガンがきっかけでウツ病になっていた!」に続く