1959年、テレビ西部劇シリーズ「ローハイド」の準主役でブレイクするも、そろそろ休暇が欲しいと思っていた1963年、当時、まだ無名だったイタリアのセルジオ・レオーネ監督から「荒野の用心棒」のオファーが舞い込み、渋々、受けることになった、クリント・イーストウッド(Clint Eastwood)さんですが、この作品が大ヒット。そして、その続編2作も大ヒットします。

「クリント・イーストウッドは当初「荒野の用心棒」出演を渋っていた!」からの続き

Sponsored Link

セルジオ・レオーネ監督はイーストウッドの顔が気に入っていた

名だたる俳優たちに、「荒野の用心棒」の主演オファーを出すも、ことごとく断られ、最終的に、イーストウッドさんにオファーしたという、セルジオ・レオーネ監督ですが、

ローマの「ウィリアム・モリス・エージェンシー」のエージェントであるクラウディオ・サルトリさんに勧められて「ローハイド」を観ると、

私を何よりも魅了したのは、クリントの外見でした。

と、イーストウッドさんのルックスを気に入ったそうで、

実際、1964年5月、イーストウッドさんと初対面すると、

クリントはアメリカの学生と同じような趣味の悪い服装でやって来たが、私はあまり気にしなかった。私が興味を抱いたのは、彼の顔と、彼が歩む道でした

と、やはり、イーストウッドさんの顔が気に入ったことを明かしています。

当初「荒野の用心棒」は全く期待されていなかった

さておき、「荒野の用心棒」は、イタリア・西ドイツ・スペインの3カ国合作による低予算の映画だったため、劇中登場する、メキシコ国境の無法の町の撮影は、ほとんどがスペインで行われたほか、

イーストウッドさんのほかは、キャスト・スタッフ共に、イタリア人を中心としたヨーロッパの人々で固められ(アメリカ人を装い別名義を使っていたそうです)、現場は複数の言語が飛び交っている状態で、

映画が完成するも、レオーネ監督が無名だったため、配給会社には、映画の売上が悪い9月公開とされたのですが・・・

1964年9月、イタリアで、映画「荒野の用心棒」が公開されると、当初は、イタリアの批評家から酷評されたものの、徐々に人気が高まり、ついには、イタリア映画界最大のヒットを記録。

劇中、薄汚れたポンチョに、無精髭のニヒルな面構え、短い葉巻を口の端にくわえた、独特の風貌とスタイルで、正体不明の流れ者の雇われ用心棒「名無しの男」を、クールに演じたイーストウッドさんは、たちまち、ブレイクしたのでした。


「荒野の用心棒」より。

「荒野の用心棒」「夕陽のガンマン」「続・夕日のガンマン」が大ヒット

そして、翌年の1965年12月には、同じくレオーネ監督の「夕陽のガンマン」で、賞金稼ぎのガンマンを演じると、「荒野の用心棒」を上回る大ヒットを記録。


「夕陽のガンマン」より。

さらには、その翌年の1966年12月に公開された「続・夕陽のガンマン」も、前作には及ばなかったものの、またしても大ヒットを記録し、イーストウッドさんは、たちまち、ヨーロッパとアジアを中心に人気者となったのでした。

Sponsored Link

ドル箱三部作で大ブレイク

ちなみに、この、イーストウッドさん主演のレオーネ監督マカロニ・ウェスタン3作品、「荒野の用心棒(A Fistful of Dollars)」「夕陽のガンマン(For a Few Dollars More)」「続・夕日のガンマン(The Good, the Bad and the Ugly)」は、最初の2作のタイトルに「ドル」(Dollar)が入っていることで、「ドル箱三部作」と呼ばれているのですが、文字通り、多額の興行収益をあげ、

荒野の用心棒」では、製作費20万ドル、イーストウッドさんの出演料1万5千ドルだったものが、

夕陽のガンマン」では、製作費が3倍の60万ドル、イーストウッドさんの出演料も5万ドル+歩合となり、

続・夕陽のガンマン」では、製作費がさらに2倍の120万ドル、イーストウッドさんの出演料もさらに5倍の25万ドル+歩合と、制作費もイーストウッドさんの出演料も大幅にアップしています。

(ただ、これほどの興行成績にも関わらず、いずれの作品も批評家からは酷評されたそうです)

「クリント・イーストウッドは昔「夕陽のガンマン」で大ブレイクしていた!」に続く

Sponsored Link