個性的で自由気ままな両親のもと、自由に伸び伸びと育ったという、毒蝮三太夫(どくまむし さんだゆう)さんですが、やがて、戦争一色となり、「東京大空襲」を経験したといいます。

「毒蝮三太夫の父親も母親に負けず劣らず個性的だった!」からの続き

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戦時中は学童疎開せず両親と共に東京に残っていた

個性的な両親のもと、伸び伸び育ったという毒蝮さんですが、1945年2月、9歳の時には、東京の街は戦争一色となり、軍事施設を狙って爆撃に向かう米戦略爆撃機「B29」が飛ぶようになったそうで、

当初、毒蝮さんは、級友たちが学童疎開をする中、両親とともに東京に残っていたそうですが、やがて、住んでいた木造長屋が、空襲による延焼を止める強制疎開で取り壊され、東京都品川区に移り、戸越銀座商店街のそば屋の2階に間借りして住むようになったそうです。

(毒蝮さんによると、両親が、毒蝮さんを一人で疎開させるより、一緒にいた方がいいと考えたのではないかとのこと)

東京大空襲(下町空襲)で下町が真っ赤に染まるのを見ていた

そんな中、同年3月10日午前0時直後には、約300機の「B29」が一般の住宅を標的に東京の下町に爆撃を開始(東京大空襲)。

空襲は3月10日未明まで続くと、一晩で東京の約3分の1が焼け野原となり、死者10万人、負傷者100万人という、かつてないほどの最悪な空襲となったのですが、

(特にこの日のことを「東京大空襲」と呼ぶ場合が多いそうです)

毒蝮さんは、間借りしていた部屋から、15キロくらい離れた下町が、空襲の被害を受けて真っ赤に染まるのを見たそうです。

(米軍は、当初は軍事施設のみを狙っていたのですが、やがて、東京やそのほかの大都市を焼け野原にすれば、日本は戦意を消失するだろうと考え、一般住宅を標的に「B29」で大量の焼夷弾を落とすようになったそうで、焼夷弾は、空中ではじけ、火のついた油の固まりを撒き散らす仕組みで、日本の木造家屋を徹底的に焼き尽くすことを目的に作られていたそうです)

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東京大空襲(城南大空襲)を経験していた

そして、同年5月24日の午前1時半頃には、毒蝮さんたちが住んでいた品川にも、500機の「B29」が爆撃を開始(城南大空襲)。

毒蝮さんは、空襲警報のサイレンで飛び起きると、防空頭巾をかぶって外に出たそうですが、「B29」は操縦士の顔が見えるほど低く飛び、シュルシュル、シャアアアアと嫌な音とともに焼夷弾(しょういだん)を落としてきたそうで、焼夷弾が落ちた住宅や道路は、グワッという爆音とともに火の手が上がったそうです。

そこで、毒蝮さんは、近所の人たちとバケツリレーで火を消そうとしたそうですが、焼夷弾からはぶよぶよとした油脂が飛び散り、水をかけても火は消えず、ますます勢いを増すばかりだったそうで、品川の町はあっという間に炎に包まれてしまったのだそうです。

(「B29」は次々とやって来ては焼夷弾を投下したそうで、毒蝮さんは、焼夷弾が直撃して身体半分が溶けたような状態になっている人も見たそうです)

「毒蝮三太夫は少年時代に死体だらけの焼け野原を避難していた!」に続く

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