東京大空襲(下町)は免れるも、城南大空襲(広義での東京大空襲)に遭い、焼夷弾が投下される中、消火活動をしていたという、毒蝮三太夫(どくまむし さんだゆう)さんですが、消火は一向に進まず、やがては、燃え盛る火の海の中、お母さんと共に高台を目指して避難することに。ただ、その道程は想像を絶する凄まじい光景だったといいます。

「毒蝮三太夫は少年時代「東京(城南)大空襲」を経験していた!」からの続き

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消火活動を諦め高台に避難することに

毒蝮さんたちが住んでいた品川にも「B29」の爆撃が開始され(城南大空襲)、次々と焼夷弾(しょういだん)が投下される中、毒蝮さんは、焼夷弾の火を消そうと必死で近所の人たちとバケツリレーをしていたそうですが、消化はまるで追いつかなかったそうで、

やがては、火を消すことは到底無理だと判断したお母さんに手を引かれ、桐ケ谷という高台の空き地を目指して、逃げることになったそうです。

(お父さんは、「危なくなったら逃げろ」と言い残し、仕事で出入りしていた恵比寿の海軍技術研究所に向かっていたそうです)

火の海を水中メガネをかけて避難

こうして、毒蝮さんたちは、(周りは火の海だったことから)火にまかれないように風上に向かって走ったそうですが、身体が吹き飛ばされそうになるほどのもの凄い熱風や火の粉が前から吹きつけてきたそうで、

普段なら10分ほどで行ける距離(500メートルほど)が、この時はとても長く感じ、思わず、毒蝮さんが、目が焼けるように痛くて、

かあちゃん。こんなに苦しいんなら、死んだ方がましだ

と、叫ぶと、

お母さんに、

バカ言ってんじゃない!死ぬために逃げてんじゃない。生きるために逃げるんだ

と、声を張り上げて叱られ、

抱えていた木箱から水中メガネを取り出して渡されたそうで(水中メガネをつけるとすぐに目が楽になったそうです)、その後、無事、桐ケ谷まで逃げ切ることができたのだそうです。

(水中メガネは、プール遊びで愛用していたセルロイド製のもので、お母さんが前もって木箱に入れて用意してくれていたのだそうです)

死体だらけの焼け野原を家路に向かって歩いていた

そして、夜が明けると、住んでいたそば屋を目指して歩いたそうですが、

(そば屋は焼けて無くなる無くなっているだろうとは思ったそうですが、とにかく、帰らなければ仕方がないと、方角だけを頼りに、煙がくすぶる空襲跡を歩いたのだそうです)

その道すがらには、至るところに、首のない死体、手のない死体、焼けた死体が横たわっていたそうです。

それでも、その時は、毒蝮さんは、感情が麻痺していたそうで、辛いとも悲しいとも気の毒だとも思わなかったそうで、ただ、踏んだら悪いと思い、死体をそっとまたぎながら進んだのだそうです。

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道すがら拾った靴の中には足首が

また、地面には焼け残った木っ端がくすぶっていたことから、歩くうちに靴が焦げてきて、やがては、足の裏が痛くて仕方なくなったそうですが、

ふと、道路脇に少年用の革の編み上げ靴が落ちているのを見つけたそうで、毒蝮さんはうれしくなり、「わあ、靴だ!」と言いながら近づき、履き替えようとその靴を拾い上げたそうですが・・・

なぜか片方がずっしりと重く、ひもを解いて見てみると、中には足首が。

(焼夷弾の爆風で吹き飛ばされたであろう少年の足首)

それでも、毒蝮さんは、怖い、悲しいなどの感情はまるでなかったそうで、その靴から足首を抜き取って、(血はまったく出ていなかったため)履き替えさせてもらったのだそうです。

ちなみに、信心深いお母さんも、この時ばかりは何も言わず、見て見ぬふりをしていたそうで、

毒蝮さんは、

きっと、靴を履いていた子に心の中で手を合わせて、「あなたに代わって息子がこの靴を履いて生きていくのを、どうか許してください」って謝っていたんじゃないかな

と、語っています。

「毒蝮三太夫は少年時代「終戦」に内心大喜びしていた!」に続く

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