教育ママのお母さんの言いつけどおり勉強に励み、見事、明治大学工学部に入られた、ビートたけしさんですが、あっという間に学校が嫌になり、大学を中退。お母さんには勘当されてしまうのですが、ここからたけしさんの芸人への道がスタートします。

「ビートたけしの生い立ちは?少年時代から成績優秀だった!」からの続き

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母親の期待を裏切り大学中退

たけしさんは、1965年、お母さんが希望する明治大学工学部に入学されるのですが、

(お母さんは、息子全員に、大学へ行くなら理系、それも技術が身につけられる機械関係へと切望したため、たけしさんの男兄弟は全員、工学部に進学されています)

入学してたった20日で大学が遠くて嫌になったそうで、大学2年生のときにはやめることを決心。

たけしさんは、これまで、お母さんの希望通り、サラリーマンになるべく大学の工学部を目指し、ひたすら勉強をしてきており、この時、生まれて初めてお母さんに反抗したそうですが、

これに対し、お母さんは、泣いて怒ったそうで、

二度と帰ってくるな

と、たけしさんは勘当されてしまいます。

勘当されるも陰では母親に支えられていた

こうして、たけしさんは、家出同然で家を出ることとなったのですが、

後に、たけしさんは、

あのとき、新宿の空が変わって見えたね。何色って、そりゃ青だよ。赤く見えたらおかしいだろ! 学校を辞めたのは、(自分にとって)けっこうな“自殺”だったし、“母殺し”だと思うよ。

おふくろは内職して、昼は(日雇いの土木労働を意味する)ヨイトマケやって、夜はブリキのおもちゃ作って、大学行かせたんだから…。食い物まで制限して頑張った母ちゃんを裏切るのは心が痛んだ。

と、手錠が外されたような清々しさを味わうも、同時に、少し、後ろ髪引かれる気持ちであったことを明かされています。

一方、お母さんはというと、実は、以降6年間、除籍になるまで学費を支払い続けていたほか、たけしさんが家出した後は、どこで調べたのか、たけしさんが一人暮らしをしていたアパートの大家さんに「うちの息子がお金を払えなくなったら、私に請求してください」と自宅住所を書いた紙を置いていかれたのだそうです。

たけしさんは、アパートの家賃が払えなくなり、半年分貯めてしまったことがあったそうですが、その時、大家さんからこの話を聞いて、初めてこのことを知ったのだそうです。

アルバイトを転々

さて、家を飛び出したたけしさんは、東京・新宿界隈に移り住むと、当時、加熱していた学生運動に参加するも、情熱を見いだせず、やがて、ジャズに傾倒するようになり、「LeftyCandy」「新宿ACB(アシベ)」、名曲喫茶「風月堂」などに入り浸るように。

そして、ジャズ喫茶やクラブでボーイのアルバイトをするほか、お菓子の計り売り、実演販売員、ビルの解体工、東京国際空港での荷卸など、職を転々とします。

空港での荷物の上げ下ろしのバイトでは、大学の空手部や柔道部などの運動部員、しかもガラの悪い者ばかりがアルバイトに来ていたそうで、ケンカばかりだったそうですが、

たけしさんは、相手の顔を見た瞬間、急所を思い切り蹴飛ばし、目を突いて、アッパーカットを3発お見舞いして、いつもケンカに勝てたそうで、この時の経験から、ケンカが強くなれたのだとか。

また、ビルのコンクリートの壁にあるベニア板をはがす仕事では、コンクリートは乾燥する時に酸素を吸い込むのか、現場が地下にあると、酸素がなくなっている場合があるらしく、ある日のこと、最初に中に入って行ったバイトが酸欠で倒れて、2人目がよろけ、3人目だったたけしさんはそれを見て、逃げ出したそうで、それ以来、たけしさんは、必ず、人よりも先にどこかに入らないようにしているのだそうです(笑)

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ストリップ劇場「浅草フランス座」のエレベーター番になり芸人を志す

そんなたけしさんは、空港で働いた経験からか、通訳になろうと思いたち、留学費用を稼ぐ目的でタクシーの運転手を務めるも、たったの半年で退社。

その後は、ガソリンスタンドでアルバイトをして生計を立てていたそうですが、ちょうどこの頃、新宿のジャズ喫茶「ビザール」のバイトで知り合った若松孝二さんに誘われ、新劇「新宿マッド」「腹貸し女」など、若松さんのいくつかの作品に端役で出演。

ただ、たけしさんは、芸能に興味はあったものの、当時、流行っていた「アングラ演劇」には馴染めず、

理工系なので文学的なものはわからない、しかし演芸なら自分にも理解できるだろう

との理由から、いつの頃からか、芸人を志すようになります。

そして、1972年の夏、高校時代によく遊んでいた浅草に行くと、浅草のストリップ劇場「浅草フランス座」「エレベーター番募集」の張り紙を見て応募。「浅草フランス座」のエレベーターボーイとして働き始めたそうで、

後に、たけしさんは、

ジャズ喫茶でバイトしているとき、新しい芸術の波が起きていて、仲間が新劇とか映画監督の若松孝二のとこに行ったりして…。それ見て、俺も何かやんなきゃいけないかなって思った。

そのときは映画なんか興味がなかったから、高校時代に遊んでた浅草に行ったんだ。そしたら、演芸場の浅草フランス座を持ってる会社に“エレベーター番募集”って書いてあって、バイトで入っちゃった。

と、芸人を目指すようになった経緯について明かされています。

「ビートたけしの下積時代の相方カーキーが自殺未遂した理由とは?」に続く

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