1964年、大学在学中にスカウトされ、「日活」に入社すると、翌年の1965年には、映画「あばれ騎士道」で華々しくデビュー。その後も、「日活」のアクションスターとして順調に活動を続けられていた、渡哲也(わたり てつや)さんですが、1971年には「日活」を退社し、なんと、倒産寸前だった、石原裕次郎さんの「石原プロモーション」に入社されます。今回は、渡さんが、倒産寸前だった「石原プロモーション」に入った理由やその後の活躍についてご紹介します。

「渡哲也の生い立ちは?若い頃は日活のアクションスターだった!」からの続き

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「日活」を退社し倒産寸前の「石原プロモーション」に入社

一躍、「日活」ニューアクションスターへ登りつめた渡さんですが、1971年には、「日活」がロマンポルノに路線を変更したことから、同年、「日活」を退社。

その後、「東映」ほか映画会社数社から引き合いがあった中、石原裕次郎さんへの尊敬の念から、「石原プロモーション」へ入社されます。

ただ、当時、「石原プロモーション」は、借金で倒産寸前。

というのも、「石原プロモーション」は、1968年の映画「黒部の太陽」は、観客動員数約733万人、興行収入約16億円(制作費は約4億円)という、この年、国内映画最大のヒットを記録したものの、

1970年、主人公にハリウッドの俳優を起用するなど、勝負をかけて(巨額の費用を投じて)制作した映画「ある兵士の賭け」は、

裕次郎さんの妻・石原まき子さんによると、

失敗したんです。外国の俳優さんたちを使うと日本の映画の何十倍もの製作費がかかる。裕次郎が主役ではなく、アメリカのなじみのない方だから、興行的に失敗するわけです。それで大借金。当時で言うと6億の借金。

と、大失敗に終わり、「石原プロモーション」は資金もほとんど底をつき、莫大な借金を背負ってしまっていたのでした。

(当時は、公務員の初任給が約3万円という時代だったそうで、石原さんの借金がいかに莫大だったかが分かります。)

「石原プロモーション」の救世主に

そんな「石原プロモーション」の経営難を知った渡さんは、自身の全財産180万円(当時のサラリーマンの年収4年分に相当)を差し出したそうで、

(実は、渡さんは、「日活」でデビューしたての頃、すでに大スターだった裕次郎さんが、自ら立ち上がって、「頑張ってください」と握手をしてくれたことがあったそうで、これに感激。裕次郎さんの人柄に胸を打たれたといいます。)

裕次郎さんの妻・石原まき子さんによると、

その時にはさすがに参ったって。「ありがとう、哲。気持ちだけは頂くけれども、これだけは引いてください」と戻してもらいました。そしたら間もなく、「じゃあ僕を石原プロに入れてください」と言われて、どん底の石原プロにですよ。

と、1971年、渡さんは、倒産寸前の「石原プロモーション」に入社されたのでした。

(この渡さんの入社は、倒産寸前で不安でいっぱいだった「石原プロモーション」の社員たちに大きな勇気を与えたそうです。)

「太陽にほえろ!」で石原裕次郎と共演

その後、裕次郎さんは、当時、テレビドラマが急速に普及していたことから、1972年、渡さんと共に、刑事ドラマ「太陽にほえろ!」に出演すると(制作は「石原プロ」ではなく「東宝」)、最高視聴率40%を記録する大ヒット。(1987年まで続くロングヒットとなりました。)


「太陽にほえろ!」より。石原裕次郎さんと渡さん。

そして、1979年には、「石原プロモーション」制作の刑事ドラマ「西部警察」も、派手なアクションや爆破シーンが話題となり、こちらも大ヒット。


「西部警察」より。渡さんと石原裕次郎さん。

こうして、裕次郎さんと渡さんの二枚看板はテレビ業界で大成功を収め、渡さんは、倒産寸前だった「石原プロモーション」再建に大きく貢献されたのでした。

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「松竹」「東宝」の映画や連続ドラマにも立て続けに出演

また、渡さんは、そのほかにも、

1971年「さらば掟」
1972年「追いつめる」
1973年「ゴキブリ刑事」
     「野良犬」


「ゴキブリ刑事」より。渡さんと加賀まりこさん。

などの「松竹」「東宝」の映画や、

1971年4月~1972年3月「あまくちからくち」
1972年「忍法かげろう斬り」


「あまくちからくち」より。渡瀬恒彦さん(左)と渡さん(兄弟初共演)。

などの連続ドラマにも、次々と出演されたのでした。

「渡哲也は昔度重なる病もくちなしの花が大ヒット!」に続く

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