高校在学中、制服姿で地元・神楽坂にいたところを、偶然、作家の寺山修司さんと映画監督の篠田正浩さんに声をかけられ、映画「涙を、獅子のたて髪に」でデビューした、加賀まりこ(かが まりこ)さんは、その後、次々と仕事が舞いむのですが・・・驚くべき行動に出られます。
「加賀まりこの生い立ちは?父親は映画プロデューサーだった!」からの続き
人気絶頂時に活動休止しフランス・パリへ
作家の寺山修司さんと篠田正浩監督にスカウトされて「涙を、獅子のたて髪に」で映画デビューした加賀さんは、その後、小悪魔的なルックスと歯に衣着せぬ発言から、尖ったキャラクターとして人気を博し、次々と仕事が舞い込んできたそうですが、
加賀さん本人は、女優という仕事にやりがいを見つけられなかったそうで、
演技ができたわけじゃないし、まだ20歳だったから、何か違うことができるって夢見たのね。それにびっくりするような貯金の額だったから、全部使い切ってリセットしたくて。
と、人気絶頂だった1964年、20歳の時に、なんと、突然、半年先の仕事をすべてキャンセル。
女優を辞めるつもりで、有り金を全部持って、単身フランス・パリに渡ります。
フランスではスター女優や有名監督に将来を嘱望される日本の女優と紹介される
実は、ちょうどその時、フランスでは、「キャンティ」のオーナーの川添浩史さんが、
カンヌ映画祭に正式出品する「砂の女」の宣伝プロデューサーとして滞在していて、
加賀さんも川添さんから誘いを受けており、
たまたま、加賀さんの出演作「乾いた花」が非公式招待作品に挙がっていたことから名目が立ったこともあり、これ幸いとばかりにカンヌ入りしたそうで、
(「キャンティ」は、当時、芸能人、デザイナー、文化人ほか、様々なジャンルの人々が集まるレストランで、日本の最新の文化を発信するメディアのような役割を担っていたそうです。)
「乾いた花」出演時の加賀さん。
フェスティバルの10日間は、毎晩、着物に着替えてパーティに出かけては、ソフィア・ローレン、カトリーヌ・ドヌーブといった当時のスター女優や、ゴダール、ポランスキー、トリュフォーといった有名監督が顔をそろえる中、
川添さんに、
プティ・ベベ(=B・バルドー)と呼ばれて、将来を嘱望されてる日本の女優だ。
と、紹介してもらったそうで、
加賀さんは、国際舞台でそのように言われることや、着飾った着物姿をまるで東洋の真珠のように見てくれることが、照れくさくも嬉しく感じられたのだそうです。
(ブリジッド・バルドーは、1960年代、小悪魔的な魅力で人気を博したフランスの女優で、イニシャルのB.Bとかけて、フランス語で赤ちゃんという意味の「bebe(べべ)」と呼ばれていました)
左が往年のブリジッド・バルドー、右が現在!
フランスではイブ・サンローランやゴダール監督らと交流していた
ちなみに、パーティーでは決して豪華なお料理やお酒が出された訳ではないものの、スターや関係者が立ち話で真剣に映画や演劇について話している光景が、加賀さんがそれまで知っていた日本のパーティーでの、「女優はお人形のようにただニッコリ笑ってお茶を濁しているだけ」という光景と大きく違っていたことが、特に印象に残ったそうですが、
それでも、映画祭が終わると、
女優人生はリセットだ!
と、ホクホクしながらパリでの一人暮らしをスタートさせたそうで、
パリでは、加賀さんが誰より敬愛する、川添さんの奥さんで、「キャンティ」の女主人・梶子さんから紹介された、デザイナーのイブ・サンローランや、カンヌで出会った、トリュフォー、ゴダール監督らと交流を持つほか、
当時の日本円で600万円もする豹の毛皮のコートを買うなど散財し、毎日、頭の中が爆発しそうなほど楽しく過ごしたのだそうです。
「加賀まりこは昔浅利慶太の「オンディーヌ」で女優復帰していた!」に続く
カンヌ映画祭(1964)より。(前列左から)入江美樹さん、岸田今日子さん、勅使河原宏さん、加賀さん。(後列左端から)川添浩史さん、不明、川喜田かしこさん。