元記録映画監督で日本テレビ開局社員のお父さんと、映画好きなお母さんのもとに誕生すると、幼い頃には、よく映画館に連れて行ってもらっていたという、徳光和夫(とくみつ かずお)さんですが、やがて、落語のおもしろさに目覚め、自身も落語家になりたいと、落語家・柳家小さんさんに弟子入りしようとしたことがあったそうです。

「徳光和夫の父親は日本テレビ開局社員!記録映画監督も!」からの続き

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少年時代は落語が好きだった

徳光さんは、幼い頃から、おしゃべりが好きな子供だったそうで、小学校2年生の時には、ラジオで落語を聞いたことがきっかけで落語が好きになったそうですが、

(淡々と話す口調がリズミカルで心地よく感じたそうです)

特に好きだったのが、柳家小さんさん、桂文楽さん、三遊亭円楽(さんゆうていえんらく)さん、三遊亭圓遊(さんゆていえんゆう)さん、三遊亭圓生(さんゆうていえんしょう)さん、林家三平さん、月の家圓鏡(つきのやえんきょう)さんの落語だったそうです。

(三遊亭圓遊さんの「湯屋番」、柳家小さんさんの「あくび指南」、桂文楽さんの「明烏(あけがらす)」は何度も聞いたそうです)

中学の時には教室で落語を披露していた

やがて、徳光さんは、自分でも落語をやってみたいと思うようになり、中学生の時には、講談社の落語読本を買って読んで覚えると、教室で披露。

すると、みんなに大ウケしたそうで、自分が認められたような気がして気分が良く、ホームルームで先生が来ない時、クラスメートから「徳ちゃん、落語やってよ」と声がかかると、

教壇の上にお母さんが作ってくれた座布団を敷いて、「えー、それじゃあ、バカバカしい一席を」と落語を始め、「錦明竹(きんめいちく)」「道具屋」「寿限無(じゅげむ)」「寝床」「明烏」などを披露したのだそうです。

(落語には、「吉原遊廓」や男女の睦言などが頻繁に出てくるのですが、それが、まだ思春期で、背伸びをしたい年頃の少年だった徳光さんの心を刺激し、「俺は廓(くるわ)を知ってるぞ」「粋な江戸っ子情話にも通じてるぞ」と優越感に浸ることもでき、落語をするのがますます楽しくなったのだそうです)

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落語家・柳家小さんに弟子入りしようとしていた

そんな徳光さんは、高校でも学芸会の時、鉄道マニアの佐藤くんという友達と一緒に講堂で落語をやったところ、これまた大盛況だったそうで、徐々に、噺家(はなしか)になりたいという気持ちが芽生え、ついには、落語家を目指し、柳家小さんさんに弟子入りすることを決意。

落語雑誌に掲載されていた情報をもとに、小さんさんの目白の自宅を訪れたそうですが・・・

どうやって中に入っていいか分からず、立派な門構えの前で行ったり来たりしていると、玄関で水をまいていたお弟子さんが、

お兄ちゃんどうしたんだ

と、声をかけてくれたそうで、

思い切って、

落語家になりたいんです

と、言うと、

ちゃんと親には了解を得てきた?親御さんに。ボクはお母さんに言ってきたの?

と、聞かれたそうで、

徳光さんは、

言ってきてないです

と、ドキドキしながら正直に答えると、

お弟子さん:おまえ、家出じゃねぇか。どっから来たんだ
徳光さん:目黒、上目黒です
お弟子さん:とにかく、だったらすぐ帰りなさい

と、やり取りが続いた後、

落語家にはならないほうがいいよ

と、言われ、追い返されてしまったのだそうです。

(実は、徳光さんは、親に打ち明けたら絶対に反対されると思い、家出同然で柳家小さんさんの家に転がり込み、師匠が預かってくれたら、親には事後承諾でいこうという考えていたそうですが、一人での帰り道、自分の弱さを痛感し、「親に申し訳ないな」と思いながら家に帰ったそうで、このことは、最後まで両親に話すことができなかったそうです)

「徳光和夫は中学時代には歌謡ショーの司会にも感銘を受けていた」に続く

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