妬(ねた)みや嫉(そね)みで潰されることを心配した、師匠で養父の14代目守田勘弥さんによって、主役と脇役を交互に演じていたという、坂東玉三郎(ばんどう たまさぶろう)さんですが、1971年6月、片岡孝夫(現・15代目片岡仁左衛門)さんとコンビを組むと、たちまち大ブレイクとなります。

「坂東玉三郎は嫉妬を避ける為ブレイクを抑制されていた!」からの続き

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片岡孝夫(現15代目片岡仁左衛門)との「孝・玉」コンビで大ブレイク

坂東さんは、1969年5月、名古屋の御園座で、「絢爛たる花拍子」という演目に女雛役で出演しているのですが、この時、男雛役を演じた片岡孝夫(現・15代目片岡仁左衛門)さんと初共演となると(坂東さん19歳、片岡さん25歳)、同年7月、国立劇場で上演された「仮名手本忠臣蔵」でも、片岡さんと共演。

そして、1971年6月には、新橋演舞場での公演「花形歌舞伎」で、再び、片岡孝夫さんとコンビを組むと、背がすらりと高い二人は、これまでの古風な歌舞伎とは一味違う、近代的な美しさで観客を魅了し、”孝・玉””T・T”コンビとして、たちまち大ブレイクします。

(従来の歌舞伎ファンだけではなく、一般の人たちをも熱狂の渦に巻き込む大ブレイク)

女方としては背が高く苦労していたところ自身より背が高く二枚目の片岡孝夫とのコンビで解決

実は、坂東さんは、身長が173センチあるのですが、立役の役者はみな年配で坂東さんより背が低く、立って並ぶと釣り合わなかったことから、坂東さんは、腰を低くするなど、舞台での見せ方に苦労していたそうで、

後のインタビューでも、

今は、180センチを超える女形もいますから、私はそんなに背の高い方ではないのですが、私が若い頃は、170センチ以上の先輩方は少なかったのです。

当時私は大きくて細くて顔が小さかったものですから、舞台でどうすればいいのか研究が必要でした

と、語っているのですが、

一番の解決策は、坂東さんが自身よりも背の高い立役の役者と共演することで、身長が170センチ以上ある立役が少ない中、片岡さんは、坂東さんよりも、すらりと背が高い二枚目だったため(しかも同世代)、この問題が一気に解決したのでした。

(それに加え、美男美女のコンビだったことから、観客が熱狂したそうです)

片岡孝夫はなかなか役が回ってこなかった

ちなみに、片岡さんは、関西歌舞伎の名門「片岡仁左衛門」一門の御曹司なのですが、関西歌舞伎が不振となり、1967年、仁左衛門家は松竹に頼み込み、活動の拠点を東京に移しており、三男である片岡さんには、役がなかなか回って来なかったそうですが、

そんな中、坂東さんの師匠で養父の守田勘弥さんと中村勘三郎さんが目をかけてくれたそうで、

片岡さんは、

そのお陰げでいろんな役が増えたんです。特に喜の字屋のおじさん(勘彌さん)には、玉三郎君とのコンビという新たなチャンスをいただきました

と、語っています。

14代目守田勘弥の猛プッシュで「海老玊」から「孝・玉」に移行されていた

実は、松竹は、もともと、坂東さんを、”歌舞伎界のプリンス”と呼ばれる市川海老蔵(現・12代市川團十郎)さんとコンビで売り出そうとしていたのですが、

勘弥さんの猛プッシュにより、片岡さんが新橋演舞場での公演「花形歌舞伎」(1971年6月)で坂東さんの相手役に抜擢されると、二人の人気が出たそうで、松竹は、以降、軌道修正し、坂東さんと片岡さんのコンビで売り出していくことにしたのだそうです。

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14代目守田勘弥は片岡孝夫を我が子のように可愛がっていた

このような経緯から、片岡さんは、勘弥さんを大恩人と語っているのですが、勘弥さんもまた、片岡さんと出会ったことが相当嬉しかったようで、「孝夫、孝夫」と、まるで自分の息子のように呼び捨てにしてかわいがり、

片岡さんの実の父親・仁左衛門さんの前でも、「孝夫いいだろう」と、まるで自分の息子を自慢するかのように語り、周囲を苦笑させたと言われているのですが、

同じ二枚目役者として、片岡さんに自身の芸を伝えることができたのも、片岡さんをかわいがっていた理由だと言われています。

(養子である坂東さんは女方で自身の芸は継がせられなかったことから)

「坂東玉三郎は篠山紀信によって更なる大ブレイクとなっていた!」に続く

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