映画「日本の黒幕」で、高田宏治さんの脚本に納得がいかず、結果的に、内藤誠さんと共に自ら脚本を書くことになった、大島渚(おおしま なぎさ)さんですが、今度は、自身が書いた脚本にも納得がいかなくなり、公開の延長を求めるも、受け入れられず、監督を降板することとなります。

「大島渚は「日本の黒幕」で高田宏治の脚本を本人の前で床に叩きつけていた!」からの続き

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自分たちで作った脚本を提示するも慌てて脚本を担当したい訳ではない旨伝えていた

脚本担当の高田宏治さんから上がってきた、「日本の黒幕」の第1稿を見るなり、(伝えていたイメージと違い、受け入れがたい内容だったことから)カーっとして、高田さん本人の目の前で高田さんの脚本を床に叩きつけたうえ、「東映」のプロデューサー・日下部五朗さんに、内藤誠さんと書いた脚本を見せ、どちらが良いか判断を仰いだ大島さんですが、

日下部さんが、やむを得ず(この映画の最大の売りは大島さんが監督をすることで、大島さんの機嫌を損ねないようにとの配慮から)、大島・内藤版の脚本を採用することに決めると、

慌てて、この脚本は高田さんの脚本に対する自分の考えを伝えるために書いたもので、決して自分たちが脚本を担当したいわけではない旨を伝え、正式な脚本家をつけてほしいと申し入れたそうです。

「仁義なき戦い」の脚本家・笠原和夫の参加を希望するも断られる

そんな大島さんは、東映の大ヒット作品「仁義なき戦い」の脚本を担当した、笠原和夫さんの参加を希望したそうですが、(理由は不明ですが)東映は、何かと理由をつけて同意しなかったそうで、

その後、松田寛夫さん、神波史男さん、大和屋竺さんなど別の脚本家に依頼したそうですが、いずれも、スケジュールの都合が合わず、ことごとく断られてしまったそうで、結局、大島さんと内藤さんで書き上げるしかなくなってしまったそうです。

自身が書いた脚本のラストにも納得できず公開延期を求めるも受け入れられず降板

こうして、大島さんと内藤さんの脚本はほぼ出来上がったそうですが、今度は、ラストの少年テロリストが元総理大臣を撃つという設定に引っかかりを覚え、どのようにすればいいかと考えているうちに、企画そのものに疑問を感じ始めたそうで、

(最終的には、フィクサーの葬儀に現れた少年テロリストが遺影に向かって発砲するという結末を考えたそうですが、それも納得がいかなかったそうで)

1979年8月10日のクランクインを前に、大島さんは、満足のいく脚本が完成していないことを理由に延期を求めたそうですが、もともと、公開日の決まった映画だっため、製作延期をすることはできず、同年8月3日、「東映」の岡田茂社長と話し合いの末、大島さんは「日本の黒幕」の監督を降板したのでした。

(大島さんは、「あと、5日、いや3日」と延期を要求するも「東映」側から無下に断られたため、旅館の机をひっくり返し、さっさと京都から引き揚げ、すべての企画が中止になったのだそうです)

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大島渚のコメント

ちなみに、大島さんは、「日本の黒幕」を降板してから3日後、読売新聞の夕刊(1979年8月6日)のインタビューで、

見にくる人はロッキード事件や児玉誉士夫についての、これまで明らかにされていない部分が映画になると思うだろう。

その期待を裏切ってはいけない、そう思っていろいろ調べはしたのですが、うまく行かなかった。やはり大手の映画会社の封切り日を決めての量産方式では不可能ということですね

と、降板理由を語っています。

「大島渚が降板後の「日本の黒幕」は降旗康男が引き継ぐも不振だった!」に続く

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