疎開先の信州では、東京のお父さんからの仕送りが途絶えがちで、農家に身を寄せて肩身の狭い思いをしながら暮らしていたという、永六輔(えい ろくすけ)さんですが、終戦から約2年後、ようやく東京に戻ると、お父さんの手作りのバラックに住み、様々なアルバイトをしてお金を稼いだといいます。

「永六輔は学童疎開したことで病気が治っていた!」からの続き

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東京に戻ると近所の寺の世話になったあと父親の手作りのバラックに住んでいた

東京の家が焼け落ちて失くなったため、終戦後も、疎開先の信州で暮らすことを余儀なくされていた永さんですが、ようやく、1947年、中学2年生(14歳)の時、疎開先の信州から東京に戻ると、焼け残った稲荷町や柴又帝釈天に近い高砂のお寺のお世話になり、

同年秋頃には、もともと家があった場所にお父さんがバラックを建てたことから、そこに引っ越し、家族で住めるようになったそうです。

(お父さんは、焼け残った跡から、板やトタンを持って来て、(難しい箇所は近所の大工さんに頼んだそうですが)1人でバラックを完成させたため、変に古い家だったそうです(笑))

鉄クズ集めで小遣い稼ぎをしていた

そして、永さんはというと、東京に帰ってからは、近所の悪ガキたちと小遣い稼ぎを始めたそうで、朝起きると、焼け跡に行って、煤(すす)や泥で顔や手足を黒く汚しながら、鉄クズや鉛管を掘って集めて売りに行き、稼いだお金で秋葉原で部品を買って鉱物ラジオを組み立てたそうです。

ちなみに、鉄クズは、ある程度の量になってから、それを買ってくれる元締めの年上の男の人2人に売りに行っていたそうですが、そのうちの1人が、当時、17歳だった渥美清さんだったそうで、渥美さんは、たとえ相手が子供でも、決してピンハネしない人だったため、永さんら少年たちの間で人気者だったそうです。

(渥美さんとは、後年、芸能界で再会し、1996年に渥美さんが他界するまで親交が続いたそうです)

NHKのラジオ番組「日曜娯楽版」のコントの賞金で稼いでいた

また、永さんは、東京では、(旧制)早稲田中学校に編入しているのですが、月謝代を稼がなければならなかったため、いろいろなアルバイトをしたそうで、その中でも、一番効率的に稼げたのが、NHKだったそうです。

というのも、永さんは、組み立てた鉱物ラジオで、三木鶏郎(トリロー)さんのNHKラジオ番組「日曜娯楽版」を聴くのが好きだったそうですが、その中の「冗談音楽」というコーナーではコントを募集しており、採用されると、(大人が丸1日働いた収入が240円の時代に)コント1本につき300円もくれたそうで、

永さんは、お金が送られてくることが嬉しく、どんどん書いて応募し、これで、かなりのお金を稼いだのだそうです。

(「冗談音楽」は、歌とコントで世相を風刺し、爆発的な人気を博していたそうですが、その中のコントは、ほとんどがリスナーからの投稿作品で、しかも、局側がテーマを決めて募集するのではなく、あくまで、テーマをリスナーに任せていたため、人々が日々の暮らしの中で感じる政治や社会に対する風刺がおもしろかったそうです)

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寄席をヒントにコントを書いていた

ちなみに、永さんは、小さい頃から見聞きしていた寄席をヒントに、コントを書いていたそうですが、永さんの実家のお寺の近所には、芸人さんがたくさん住んでおり、

若い噺家(はなしか)を集めて寄席をやっていたほか、その人達が訪ねて来て、お父さんと話をしているのが自然に耳に入ってきたそうで、人を笑わせることがうまい人達と一緒にいたことが、コントを書くうえでとても役に立ったのだそうです。

(永さんのお寺の宗派は浄土真宗なのですが、浄土真宗は、もともと、誰でも好きな時に、ご飯を食べに来たり、泊まりに来ても良いように開放されていたそうで、そのため、永さんの実家のお寺にも、芸人さんたちが自由に出入りしていたそうです。ただ、ホームレス、よく分からないおじさん、おばさん、病人なども、たくさん出入りしていたそうです)

「永六輔は中学の頃から淀川長治に師事していた!」に続く

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