早稲田大学「演劇研究部」では、先輩の山本薩夫さんと谷口千吉さんが中退したことで、部の中心人物となると、大学の外の素人劇団「中央舞台」にも出演するようになど、積極的に演劇活動に打ち込むも、1936年、当時、必修とされていた軍事教練を拒否したことで、早稲田大学を中退したという、森繁久彌(もりしげ ひさや)さんですが、その後、お兄さんのコネで「東宝」に入社することになったそうです。

「森繁久彌は早大時代「中央舞台(人間座)」で芝居に明け暮れていた!」からの続き

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兄のコネで「東宝」に入社

1936年、当時、必修とされていた軍事教練を拒否したことで、早稲田大学を中退した森繁さんは、その後、運良くお兄さんの紹介で、「東京宝塚劇場」(現在の東宝)に入社することになったそうですが、

お兄さんは、「東宝」の重役2人に橋渡しをしてくれる某会社の重役とは、親友同士だったそうで、お兄さんとその親友の重役は、新橋の高級料亭で、芸者を呼んで、「東宝」の重役2人を接待してくれたそうです。

ちなみに、その際、お兄さんは、(下座に座り)弟である森繁さんを「お願いします」と頼んだそうですが、「東宝」の重役たちは、森繁さんの顔をチラッチラッと2度ほど見ただけで、後は、次々と現れる芸者にニヤニヤし、

「この世にこれほどくだらん会話を大の大人が してもいいのか」と、ただただ、呆れるしかないほど、バカバカしい、幼稚で低劣な乱痴気騒ぎを繰り広げたことから、

(その乱痴気騒ぎは、まだ、若かった森繁さんにとっては、我慢の限界を通り越す、ひどいものだったそうです)

森繁さんは、

こんな旦那が重役じゃ、この東宝会社も大したことはないだろう

と、憤慨し、この重役たち(森繁さんいわく、「赤っ鼻のハゲ」)を睨(にら)み返したそうですが、

そのせいか、ほどなくして、森繁さんは退出するよう命じられたのだそうです。

後年には自身も「東宝」の重役たちと同じことをしていた

ただ、後年、森繁さんも、この「東宝」の重役たちのような立場となり、 時々、大座敷での食事の席で、若者たちに取り囲まれながら、世にもくだらない会話をし、接待の女性にニヤニヤしている自分に気づくことがあったそうで、

その際には、ふと、この当時の出来事が頭をかすめ、当時の重役たちと同じことをしている自分にシュンとなったそうですが、不潔な大人たちの花柳の宴席には、真面目な青年を同席させるべきではないと思うようになったそうです。

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胡散臭い面接で「東宝」に採用される

さておき、それから、しばらくして、森繁さんは、「東宝」の重役から、広すぎる重役室に呼ばれたそうで、森繁さんは、金ボタンのついた襟を正しながらも、あの日の夜を思い出して、半分なめてかかり、堂々とした態度で、分厚い絨毯(じゅうたん)を踏みながら、その部屋に入ったそうです。

すると、その重役は、あの日の夜とは打って変わり、苦虫を噛み潰したような般若(はんにゃ)のような顔で、

君は・・・真面目にやって行けるか?

と、聞いてきたそうで、

森繁さんが、

ハイ。出来る限り・・・

と、答えると、

(「真面目とはどういうことだろう、アンタぐらいには・・・」と、思わず、口まで出かかったそうです)

重役:まだ学生か?
森繁さん:いいえ。(何も分かってないんだ、と思ったそうです)
重役:君 は・・・何をやりたいんだっけ
森繁さん:・・・(なんだ!コイツ、覚えてないのか!)
重役:学校は?
森繁さん:早稲田です。あの、僕は・・・4日ほど前に新橋の・・・
重役:ああ、そうか、そうか。いや失敬した。ともかくネ、わが社の仕事はむずかしいからね、しっかりやりたまえ
森繁さん:ハイ
重役:おい!(秘書に)それで・・・どうするんだっけ・・・ウムウムそうか。えー、これが辞令だ

とのやり取りがあり、

その後、森繁さんが、

有難うございました。一生懸命やります。私は学校時代、築地小劇場やその他小劇場で新劇を・・・

と、言いかけると、

重役はそれを遮り、

ああ、いい、いい、そんな話は。いま忙しいからね。その話は担当の者によく話したまえ。さがってよろしい

と、言ったそうで、

この胡散(うさん)臭い面接で、「本給四十五円也を支給す」の紙切れ一枚をもらい、森繁さんは「東宝」に採用されたのだそうです(笑)

「森繁久彌は「東宝」入社後は「日劇」で舞台進行係をしていた!」に続く

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