早稲田大学進学後、先輩に誘われるがままに「演劇研究部」に入部すると、すっかり、お芝居の虜になったという、森繁久彌(もりしげ ひさや)さんは、中心人物だった山本薩夫さんと谷口千吉さんが左翼活動が原因で早稲田大学中退すると、代わって中心的存在となり、これまで伝統を重んじていた「演劇研究部」の殻を破って、積極的に外部でお芝居をするようになったそうです。

「森繁久彌は早稲田大学演劇研究部の中心的存在だった!」からの続き

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素人劇団「中央舞台」に参加するようになる

「演劇研究部」の中心的存在となると、やがては、外部の素人劇団「中央舞台」の芝居にも出演することになったという森繁さんは、

サマセット・モームの「雨」などを脚色して新しくするほか、立教大学のギターバンドを借りてきて、幕間にハワイアンを演奏させるなど、観客へのサービスも考えるようになったそうです。

(その時、ギターを弾いていたのが、後にウクレレ奏者となる灰田勝彦さんだったそうです)

「中央舞台」から「人間座」へ改名

その後、「中央舞台」は、”発展的解消”として「人間座」へと改名すると、

(”発展的解消”とは、当時の流行語だったそうですが、単に、森繁さんが嫌いな部員を追い出しただけだったそうです(笑))

1934年には、初公演として、ユージン・オニールの戯曲「アンナ・クリスティー」を築地小劇場で行ったそうですが、

築地小劇場の大道具の長谷川さん(後に「東宝」の重役になったそうです)という人に支払いをしていなかったことから、3幕目の幕が上がらず、森繁さんたち座員は、ドーランを落とし、帽子を片手に、観客席をカンパに回ったそうで、この時かいた大恥は、その後ずっと忘れられなかったそうです。

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必修の軍事教練を拒否し早稲田大学を中退していた

さておき、その後も、森繁さんは、「築地小劇場」を借りて、オニールやシュニッツラーなど、数々の名作に主演するほか、(早稲田大学の)大隈講堂では、岸田国土の芝居をするなど、芝居に明け暮れる毎日を送ったそうですが、

1936年、当時、必修とされていた軍事教練を拒否したことで、早稲田大学を中退したそうで、

森繁さんは、著書「森繁自伝」に、

早稲田に五年も通い・・・、大して学問を身につけたとは覚えぬが、それでも月謝や本代をバーや待合やダンスホールにつかった 五年間の実績は馬鹿にならぬもので、社会科があれば優等生であった。

親の金なればこそ気楽に浪費のできたものの、これが自分の稼いだ金ならビタ一文、一年が半年でもご免こうむりたい・・・そんな不肖の学生生活を、あと一年にひかえて私は早稲田の森を去った。  

思えばあと一年、早稲田大学株式会社 株さえ買っておけば、ご卒業目出度く学士様になっていたのだが、さっさと稲門(早稲田)に小便したのは、学生の無責任さといえばそれまでだが、もう大人になったのだと本人はうぬぼれていたのだ。

親爺の金は、芝居と芸者につかいはたすのにあきれかえった親戚が、とうとう一切、出入り差止めの交換条件でわが手に渡したが、買いたいものは買いつくし、遊蕩も学生のわくをこえた。

意志は弱く、身体もさして筋肉労働に向くとは思えず、思想も主義もさらになく、スポーツは嫌いで、取り柄といえば科学が好きなくらい、それも、金にあかして母にねだったドイツやアメリカの電車や汽車や飛行機のオモチャが山積していたくらいである。

中学から数えて十年も通った学校を、あと一年で卒業だというのにほっぽり投げ、「せめて学士さんの肩書だけは」と、あれほど 母親が頼んだのに、

その御免状も願い下げして、おまけに株券から公債、定期の金も全部を、最後には株をやって雲散霧消した「夫婦善哉」の柳吉っつぁんである。(←森繁さんが1955年に演じた映画「夫婦善哉」の主人公で放蕩息子の役)

などと、綴っています。

「森繁久彌は早大中退後は兄のコネで「東宝」に入社していた!」に続く


森繁自伝

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