旧制北野中学校時代は、いたずらばかりしていたうえ、歴史の試験では白紙で提出して、落第させられたこともあったという、森繁久彌(もりしげ ひさや)さんは、旧制早稲田第一高等学院に進学すると、物理学者を目指すも、成績が伴わず、やむなく断念したそうですが、誘われるがままに「演劇研究部」入ると、やがて、お芝居の虜になったといいます。

「森繁久彌が中学の時は天井裏から小便をし停学処分となっていた!」からの続き

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高校時代は物理学者を目指すも成績が伴わず断念

旧制北野中学校時代は、やんちゃで、落第(留年)もしたという森繁さんですが、なんとか卒業し、旧制早稲田第一高等学院に進学したそうで、

理数系が得意だったことから、物理学者を目指すようになったそうですが、成績が伴わなかったそうで、早稲田大学理工学部には入れず、仕方なく、早稲田大学商学部に入ったそうです。

先輩に誘われるがまま早稲田大学の演劇研究部に入部すると芝居の虜に

そのため、森繁さんは、目的を見失い、毎日を無為に過ごしていたそうですが、先輩に誘われるがままに、「演劇研究部」に入部すると、

当初は、表で切符のモギリをやらされていただけだったそうですが、たちまちお芝居の虜(とりこ)になったそうで、やがて、森繁さんは、「芝居にも理学がある」と気づき、ますます、お芝居にのめり込んで行ったそうです。

(当時は、「築地小劇場」に刺激され、「テアトル・コメディー」「模型劇場」(慶應義塾大学)「テアトラン・チーム」「第七芸術」「地球座」などのアマチュア劇団が次々と設立されたそうですが、早稲田は、伝統を守って、外で劇団を作らなかったそうです)

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山本薩夫と谷口千吉が左翼活動で特高に検挙されて早稲田を中退したことで「演劇研究部」の中心的存在に

そんな「演劇研究部」は、森繁さんが入部した当初は、1年上の先輩に、(後に映画監督となる)山本薩夫さんと谷口千吉さんがいたそうですが、

2人は、左翼系新劇の活動をしていたため、特高(特別高等警察)に弾圧され、早稲田を中退して、PCL(「東宝」撮影所の前身)に移籍したそうで、やがて、森繁さんが「演劇研究部」の中心的存となったそうです。

(2人は、グランドの開放などを謳った「スポーツを我等に」というスローガンのもと、学生だけで作った映画を上演中、2階から左翼の学生たちに「無産者新聞」「アカハタ」をばらまかせて、「日本青年共産党に入れ」の、のぼりを下ろさせ、場内を騒然とさせた「アート・オリンピア事件」を起こしたほか、軍事教練反対のための学生集会を開いたことで、特高に検挙されたそうです)

また、その後、東京女子大学から、数人の女子大生が入ることになり、森繁さんたち部員は意気軒昂となったそうで、

(その中には、後に妻となる萬壽子さんもいたそうです)

これまで、伝統を守り、外に劇団を作ることのなかった「演劇研究部」も、「テアトル・コメディー」などに対抗し、学校以外でも芝居をしようとの機運がだんだんと芽生えてきたそうで、素人劇団「中央舞台」に参加するようになったのだそうです。

「森繁久彌は早大時代「中央舞台(人間座)」で芝居に明け暮れていた!」に続く

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