高校生の時には、イジメに遭うも、阿蘇農業高校の先生に「根アカ」の精神で生きることを教わり、それ以来、先生の言葉を胸に生きていこうと決心したという、財津一郎(ざいつ いちろう)さんは、やがて、終戦から2~3年後、お父さんがすっかり別人のようになって復員し、ショックを受けるも、その後、合唱の虜(とりこ)になっていったといいます。

「財津一郎の「根アカ」はイジメられていた時に先生から教わったものだった!」からの続き

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父親が復員するも別人のようになっていた

終戦から2~3年ほど経ったある日のこと、財津さんたち一家が暮らす阿蘇に、待ちに待った、お父さんの復員の報せが、来たそうで、

財津さんは、

父ちゃん、生きていてくれたか!

と、大喜びし、

お父さんは再会を喜んでくれるだろうかと、お父さんとの再会に心を踊らせつつ、国鉄豊肥線に乗り、列車に2時間揺られながら、阿蘇からお父さんの実家がある熊本市に向かったそうです。

そして、お父さんの実家に到着すると、礼儀正しく、お父さんがいる部屋のふすまを開け、

おかえりなさい

と、お辞儀をしたそうですが・・・

お父さんから返事はなく、それどころか、振り向いてもくれなかったそうで、もう、一緒に剣道をやっていた優しいお父さんの姿はどこにもなかったのだそうです。

(お父さんは、その後、嘱託職員として農林省に復職したそうですが、剣道をやっていた頃とはまるで別人で、口数が少なくなり、いつも、何かに怯えたようにおどおどするようになったそうです)

29歳の時に父親が他界

ちなみに、そんなお父さんは、財津さんが、その後、吉本興業に入るために大阪に旅立つ際、東京駅のプラットホームまで見送りに来てくれたそうですが、この時がお父さんと会った最後となったそうで、

財津さんが、

おれはちょっと大阪で苦労して来るけん

と、言うと、

自分の死を予感していたのか、

これで会えんかもしれんバイ

と、言ったそうで、

財津さんは、この時は、なぜ、お父さんがそんなことを言うのか分からなかったそうですが、この言葉通り、お父さんは、それから1年後の夏の終り(財津さんが29歳の時)に他界したのだそうです。

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第五高等学校(現・熊本大学)の男性合唱団の歌声に魅了され合唱に夢中になる

さておき、その後、財津さん一家は、1950年に熊本市に戻り、財津さんは、阿蘇農業高校から済々黌(せいせいこう)高校に復学したそうですが、

ある日の昼休みのこと、垣根を隔てて隣にあった第五高等学校(現・熊本大学)から男声合唱団の歌が聞こえてきたそうで、「かっこいいなぁ」と、その声に吸い込まれるように、垣根を越えて第五高等学校への門をくぐり、学生たちが歌の練習をしている講堂に行って、窓の外から眺めていると、

優しそうなお兄さんが、手招きしてくれ、

一緒に歌えよ

と、言ってくれたそうで、

財津さんは、喜んで参加させてもらったそうです。

(そのお兄さんは、藤岡多可士さんといい、後に、熊本大学合唱団の常任指揮者となり、熊本にクラシック音楽を広めたそうです)

すると、大人の中に、丸坊主の少年がぽつんと一人いたことで、指導していた田崎篤次郎教授が、「何だ、おまえは?」と目を丸くしたそうですが、藤岡さんが、「隣の済々黌の生徒さんですよ」と説明してくれたそうで、

その日以来、財津さんは、毎日、第五高等学校に通って合唱の練習をするようになり、気がつくと、すっかり、合唱の虜(とりこ)になっていたのだそうです。

(今でも、意味は分からないながら、当時歌っていたドイツ語の歌を完璧に歌うことができるそうです)

「財津一郎が高校生の時には演劇にも夢中になっていた!」に続く

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