ピアノに転向するも、高校や大学に忍びこんで練習するなど、肝心のピアノがなかなか確保できなかったことから、思い切って、神戸・花隈のダンスホールを訪ね、ピアノ弾きとして雇ってもらったという、キダ・タローさんさんですが、今回は、そんなキダさんのピアノ弾き時代のエピソードをご紹介します。

「キダ・タローは大学時代ダンスホールでピアノ弾きとして働いていた!」からの続き

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今でも忘れられない光景とは?

神戸・花隈のダンスホールでピアノ弾きとして雇ってもらったというキダさんは、その後、大阪にできた女性専用ダンスホールのピアニストとなったそうですが、この店はすぐに閉店したそうで、今度は、別のキャバレーで、ビッグバンドのピアニストとして働き始めたそうです。

すると、そのお店には、「バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ」という、レコードも出すほどの一流の人気バンドが、しばしばゲストとして来ていたそうで、

彼らの演奏が始まると、踊っていた客は全員、演奏を見るために、ステージの前に集まったそうですが、彼らの演奏が終わり、キダさんたちの演奏の番になると、また、散っていったそうで、キダさんは、今でもその光景がまぶたに焼き付いて離れないそうです。

大学生だった石原裕次郎のバックバンドをしたことも

また、当時、大学4年生ぐらいだった石原裕次郎さんがお店に来たこともあったそうで、その際には、お店は大騒ぎになったそうですが、

(石原さんは、1956年、「太陽の季節」でデビューしているのですが、その直後ぐらいだったそうです)

キダさんはというと、その時、石原さんのバックで演奏したそうですが、まだ、オリジナル曲をそれほど持っていなかった石原さんを、

なんや生意気やなって。下地もないくせに唄、歌いやがって

と、思っていたそうです。

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客のリクエストに応えるため流行曲のレコードを購入してバンド用の譜面を書いていた

さておき、こうして、キャバレーで朝から晩までピアノを弾き続ける毎日を送っていたキダさんですが、客からはリクエストもされたそうで、そのため、流行曲のレコードを購入し、何度も聴いて音を拾い、バンド用の譜面を書いていたそうです。

というのも、当時は、譜面が売っていなかったことから(仮に売っていたとしても高額で、間違っていることが多かったそうです)、自分で音を拾うしかなかったからだそうですが、

レコードに針を落として聴き、もう一回戻す、という作業を繰り返すと、最終的には、弦と指がこすれて、レコードが真っ白になったそうです。

(音が拾いにくい曲では100回以上繰り返したそうです)

ちなみに、キダさんは、この頃、将来のことは、何も考えていなかったそうで、

私の場合、こうなろうと言うてこうなる男と違います。遙か彼方を目指して何かをやろうというのは一切ない男なんです

と、語っています。

「キダ・タローは19歳で初めて作曲をしていた!」に続く

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