幼稚園の頃、絵を描くことが大好きだったという、田原総一朗(たはら そういちろう)さんは、小学校に入学しても、変わらず、絵を描き続けていたそうですが、小学校に入学した年の暮れに太平洋戦争が始まると、授業で戦争の様子が教えられたことから、その影響を受け、やがては、「満蒙開拓青少年義勇軍」の絵日記を描くようになったそうです。

「田原総一朗は幼稚園の時「清水の次郎長」の絵を描き先生に呆れられていた!」からの続き

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小学校に入学した年の暮れに太平洋戦争が始まる

田原さんは、1941年4月、彦根市立城東小学校(正式には国民学校)に入学したそうですが、入学式では、校長が、「諸君は、大東亜建設という新しい任務を背負った輝かしい時代の戦士であります」と挨拶したそうで、同年12月8日には太平洋戦争が始まったそうです。

小学校の授業で戦争の様子を教えられていた

そして、戦争の様子は、授業でも教えられたそうで、担任の山田信三先生は、太平洋の地図を黒板に描き、

(この頃、日本軍は、破竹の勢いで、フィリピン、ボルネオ、インドネシアと、次々に南の島を占領していったことから)黒板の地図上の島を赤いチョークでどんどん囲んでいったそうで、

田原さんは、これを見て、

ずいぶん、 景気がいいなあ

と、思ったそうです。

(山田先生は、小学1年と2年の時の担任だったそうですが、山田先生は、田原さんのお母さんの両親(田原さんの祖父母)が亡くなった後、空き家になっていた彦根市正法寺の家に住んでいたそうで、そのような縁から、田原さんをとてもかわいがってくれたそうです)

また、夜になると、その日の日本軍の戦果を発表するNHKラジオ「大本営発表」を、両親と3人で聴くのが日課だったそうですが、ラジオ放送は、「アメリカの戦艦を何隻撃沈」「戦闘機を何機撃墜」といったものばかりで、今から思うと、調子のいい話ばかりだったそうです。

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小学校では満蒙開拓青少年義勇軍の絵日記を描いていた

そんな中、田原さんは、小学校に入ってからも幼稚園の時と同様、絵を描くことが大好きだったそうで、小学1年生の初めの頃には、「のらくろ」「冒険ダン吉」「コロコロ大王」など、読んでいた漫画の影響で、漫画のような絵を描くようになったそうですが、

(描いた絵に「兵隊さん、お元気ですか?」というセリフを書いたところ、山田先生に、「これは違う。 絵には言葉は書いちゃいけないんだ」と言われたそうで、田原さんは、「へえー、そうなんだ」と感心したそうです)

小学2年生の頃からは、絵日記をつけるようになったそうで、最初に描いたのは、「満蒙開拓青少年義勇軍(まんもうかいたくせいしょうねんぎゆうぐん)」で、お父さん教えられ、絵の横に「満蒙開拓義勇軍 今日は 元気でご出立」と、書いたそうですが、

まだ小学2年生だったため、田原さんにはどういう意味か分からず、お父さんに、「もっとやさしい言葉で書いた方がいいんじゃないか」と、文句を言ったこともあったそうです。

(※満蒙開拓青少年義勇軍は、高等小学校2年の子どもたちが、義勇軍として、教師に付き添われ、満州や蒙古の未開地を開拓するために海を渡って中国に派遣された制度。また、高等小学校とは、旧制で、尋常小学校を卒業した者に対し、さらに程度の高い初等教育を行った学校のこと)

「田原総一朗が小学生の時は戦争で生活が困窮していた!」に続く

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