阪神コーチ時代には、持病に苦しむ星野仙一監督をベンチ裏で支え続け、星野さんが2003年10月28日に健康上の理由で監督を退任すると、「一蓮托生」と、共に退団した、田淵幸一(たぶち こういち)さんは、2007年には、北京オリンピック野球日本代表の監督に就任した星野さんに誘われ、再び、星野さんのもとでヘッドコーチ兼打撃コーチに就任します。

「田淵幸一は星野仙一と共に阪神タイガースを退団していた!」からの続き

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北京オリンピックで再び星野仙一にコーチに誘われていた

2007年1月29日、星野仙一さんが北京オリンピック野球日本代表の監督に就任すると、田淵さんは、再び、星野さんから誘われ、ヘッドコーチ兼打撃コーチに就任しているのですが、

(この時も、星野さんからのコーチ就任依頼の言葉は、「行くぞ」だけだったそうです)

2007年12月に開催されたアジア予選では、全勝で1位を通過し、本選への出場権を獲得するも、2008年8月に開催された本選では、準決勝、3位決定戦ともに敗れ、メダル無しの4位に終わり、しかも、上位3チームには5戦全敗という結果でした。

(チーム打率2割3分4厘と長打率3割6分4厘は、決勝トーナメントに出場した4ヶ国の中で最低の成績でした)

敗因は星野仙一の監督としての情の深さが仇となっていた?

この敗因について、田淵さんは、著書「我が道」で、

(短期決戦におけるコンディショニングの難しさを痛感しつつ)今さらではあるが、本人の意思を尊重して故障持ちの選手を連れて行った監督の情の深さが残念ながらアダとなったような気がする。その苦い経験、悔しさがWBCに生かされたとすれば幸いである。

と、綴っているのですが、

星野さんのメンバー選考に問題があったようです。


我が道

敗因は故障中のメンバーの招集か

というのも、星野さんは、2007年3月31日、代表候補として、中田翔選手、由規投手、加藤幹典投手、大場翔太投手ら、新人選手も含めた1次候補77人を発表し、6月にはアジア予選メンバーを主体にした代表選手の決定を行う予定だったそうですが、

3月31日の時点で、代表候補である上原浩治投手、高橋由伸選手(共に巨人)らが故障で二軍落ちし、故障から復帰してきたヤクルトの青木宣親選手、ロッテの里崎智也選手も、まだ万全の状態ではなかったため、編成作業は難航。

そんな中、星野さんは、アジア予選メンバーから、里崎選手や森野将彦選手ら故障あがりのメンバーも選出したそうですが、メンバー招集までに、新井貴浩選手が腰痛、稲葉篤紀選手が右臀部痛、田中将大投手が右肩痛を発症するほか、代表合宿中には、村田修一選手も風邪で緊急入院。

さらには、北京入りしてからは、川﨑宗則選手がシーズン中に痛めていた左足のケガを押して出場したため骨膜炎を発症、西岡剛選手が右脇腹痛を悪化させたそうで、

情に厚い星野さんが、選手の心情を汲んで、故障中の選手を代表に選出し、故障中で活躍の見込めない選手を重要な場面で何度も使ったことが、仇(あだ)となってしまったのだそうです。

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星野仙一本人は選手の気持ちの弱さと国際試合の経験の少なさを敗因に挙げていた

ちなみに、星野さん自身は、敗因について、

(金メダルを獲得した韓国と比較し)気持ちの面で、弱い面が出た。選手たちは気を抜いて戦ったわけではもちろんないが、気持ちの部分で差があったかもしれないとも思う。

国際試合を多く経験する場を作ることで国際大会でも動揺することなく本来の実力が発揮できるような経験を積ませることが重要かと感じている

と、選手の気持ちの弱さと、国際試合の経験の少なさを挙げています。

「田淵幸一が楽天のヘッド兼打撃コーチからヘッド専任となった真相とは?」に続く

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