映画産業が下火になったことで収入が激減し、家計は火の車となっていたにもかかわらず、世間に対するセレブで華やかなイメージを守る為、父・岡田眞澄さんに裕福な家族を演じさせられ、やがて、岡田眞澄さんが、「とんねるずのみなさんのおかげです」の「仮面ノリダー」のコーナーで「ファンファン大佐」役を務め、再ブレイクを果たすも、家にはお金を入れてくれなかったことから、大学生の身で、複数のアルバイトを掛け持ちして家計を支えていたという、岡田眞善(おかだ しんぜん)さん。
そんな中、父・岡田眞澄さんは家族を捨てて家を出て行ったそうで、岡田眞善さんはそれが許せず、以降、長く絶縁状態にあったそうですが・・・
「岡田眞善は父・岡田眞澄にセレブな家族を演じさせられていた!」からの続き
岡田眞善は父・岡田眞澄の裏切りを許せず絶縁状態となっていた
1994年、突然、父・岡田眞澄さんさんが家を出ていったそうで、同年、母・藤田みどりさんと離婚すると、それからわずか1年後の1995年には、日本航空の客室乗務員だった26歳年下の女性と再婚を発表したそうですが、
岡田眞澄さんは、自身のイメージを守るため、インタビューでは、自分が家を出ていったにもかかわらず、藤田みどりさんが家を出ていったと嘘をついたうえ、息子(岡田眞善さん)や元妻(藤田みどりさん)が新生活を応援してくれているというエピソードまででっち上げて、円満離婚であることをアピールしたそうで、
岡田眞善さんは、このお父さんの裏切りを許すことができなかったそうです。
(これにより、親子関係は修復できないほど泥沼化し、岡田眞善さん、岡田眞善さんの兄弟、藤田みどりさんは、岡田眞澄さんと絶縁状態となったそうです)
岡田眞善は、父・岡田眞澄を軽蔑しながらも最期の時まで自分のイメージを守る姿には尊敬の念を抱いていた
そして、年月は過ぎ、2006年に岡田眞澄さんは死去しているのですが、
岡田眞善さんは、岡田眞澄さんの葬儀で弔事を読むと、
父を軽蔑する
と、批判するほか、
ダンディなイメージのあった岡田眞澄さんのことを、
ベッドの中に入ったまま、ビスケットをボロボロと食べ散らかしていた
と、暴露。
ただ、お父さんには尊敬できる点があったとも明かしています。
ある時、自分の命がもう長くないと悟ったお父さんから、突然、「会いたい」と電話がかかってきたそうで、岡田眞善さんは、複雑な気持ちを抱えながらも、お見舞いにいくと、そこには、末期がんの苦しみに耐えながら、息を切らす父の姿があったそうです。
しかし、看護師の話では、岡田眞澄さんは入院中はいつもダンディだったそうで、岡田眞善さんは、父が末期がんの苦しい状態の中でも、人前では、”俳優・岡田眞澄”のイメージを守り続けていたことを理解したそうです。
そして、家族が見守る死の直前、意識が遠のき、話すこともままならなくなっていたお父さんは、眞善さんを見つけると、「来い」と手招きしたそうで、最後の力を振り絞り、右手の親指を立て、「Good luck」のポーズをしたそうで、
岡田眞善さんは、そんなお父さんの生き様を見て、父は最後まで自分の信じる生き方を貫いたのだと、悟ったのだそうです。
また、岡田眞善さんは、その後、自分も同じ俳優として活動するようになったことで、父の行動が偽装ではなく、かっこいい自分でいることが俳優の仕事であり、イメージを保つために重要なことなのだと理解したのだそうです。
岡田眞善は父・岡田眞澄から死の直前に電話を受け病院に会いに行っていた
ちなみに、岡田眞善さんは、書籍「見事な死」で、
父から電話があったのは、2005年6月。話すのは7年ぶりのことだった。父はいきなりこう告げた。「がんになっちゃったよ」。数日後、麻布にある父の家を初めて訪ねた。久しぶりに見た父はずいぶん痩せてはいたが、元気に振る舞っていた。
その時僕が感じたのは、がんによる迫りくる死よりも、「ああ、生きていたんだ」という生の実感。というのも、僕の中では父は長い間「既にいないもの」だったからだ
今ふり返れば、どんな状況の中でもプロ意識が高い人だったと思う。最後にあったのは亡くなる四日前だ。既に父は話すことができなくなっていたが、私を見つけると「来い」と手招きをした。
そして、右手の親指を立ててグッドラックという手振りをした。それが父との最後のコミュニケーションであった。父は最後まで自分を信じる粋な生き様を貫いた。
と、綴っています。
(※「見事な死」は、各界の有名人40数名が「どのように死んでいったか」についてまとめた書籍)
また、岡田眞善さんは、2005年6月22日は、自身のブログに、死を悟ったお父さんから連絡があった時のことを、
久しぶりに電話越しに聞いた家族(父)の声は元気がなかった。僕も元気がなくなった。目からは、流したくないのだけど、涙が出てきた。
なんで、自分の事を、こんな僕に言うんだろう。僕に言われてもどうすることも出来ないよ。卑怯だよ。もう、生きている時間を共有することなんかないし、関わらないことが、ルールなんだと、自分に言い聞かせていた僕がいるのに。
でも、16年間の僕が生まれてからの時間の幸せは、その家族の大きな協力があってのものだった。その時間も、今年僕は32歳、人生の半分以下の時間になっちゃうんだ。なんだかせつなくなってくる。
今、ケイコ・リーのwhat a wonderful Worldを聴きながら、これを書いている。
素晴らしい世界かー・・・。
うん、僕は素晴らしい世界に生きている。優しくならなきゃ。
あす、僕はその家族に会う。何年ぶりだろう。どんな僕で行けばいいのかな。仕事が終わってからだから疲れてるかな。疲れた僕なんかで会いたくないけど、時間がない。
僕に出来る、16年分の感謝。
と、綴っています。
「岡田眞善が異母妹・岡田朋峰が岡田姓を名乗ったことに激怒した理由とは?」に続く