高校卒業後は、大阪の貸本業者に「少年探偵岬一郎シリーズ」などの作品を提供するかたわら、少女漫画デビューも果たすと、順調に漫画家としてのキャリアを積み、1961年、25歳の時には、雑誌「虹」に、蛇である継母を描いた物語「口が耳までさける時」を発表し、自ら「恐怖漫画」という新しいジャンルを確立した、楳図かずお(うめず かずお)さん。

今回は、そんな楳図かずおさんの若い頃から現在までの作品や経歴を時系列順にご紹介します。

楳図かずお

「楳図かずおの生い立ちは?小5で漫画家を目指し高卒後は貸本屋向漫画を描いていた!」からの続き

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楳図かずおの20代の頃

21歳の時に少女漫画家としてデビューしていた

楳図かずおさんは、高校卒業後は、大阪の貸本業者に漫画を描くようになると、1956年、20歳の時には、貸本短編誌(少年誌)「鍵」で、「底のない町」(1956年)など「少年探偵岬一郎シリーズ」などのスリラー漫画を描いていたそうですが、

一方で、1957年、21歳の時には、「少女ブック」(少女誌)に、コメディ漫画「なきわらいやんちゃ物語」を投稿し、少女漫画デビューも果たしています。

少女ブック新年増刊号
少女ブック新年増刊号

ちなみに、楳図かずおさんは、「なきわらいやんちゃ物語」を「少女ブック」に投稿するも、しばらくは何の返事もなかったため、あきらめていたそうですが、突然、ゲラ(校正を行うための仮の印刷物)になったものが送られてきて、「少女ブック」の1957年新年増刊号で雑誌デビューしたのだそうです。

(1950年代は、少女向け漫画が急激に勢いを増してきた時代だったため、仕事がたくさんあり、楳図かずおさんは、現実的に考えて、少女漫画の方が早くデビューできそうだと思ったのだそうです。また、この頃は、まだ女性漫画家は少なく、少女漫画も男性漫画家が描いていたのだそうです)

楳図かずお
貸本屋時代の楳図かずおさん。

22歳の時に少女漫画「母よぶこえ」の連載がスタート

すると、1958年、22歳の時には、「少女ブック」で、バレエ漫画「母よぶこえ」の連載が始まったそうで、まずは順調なスタートを切ったのだそうです。

楳図かずおの「母よぶこえ」
「母よぶこえ」

22歳~25歳の時には小女誌に数多くの作品を発表していた

その後も、楳図かずおさんは、小女誌「花」「虹」などに、「私ともう一人の私」「まぼろし少女」などの短編作品を発表し、

この年(1958年)には、8作品、1959年には12作品、1960年には15作品と、怒涛のように作品を発表し、順調に漫画家としてのキャリアを積むのですが、

(少女誌でも幻想的な作品ばかり描いていたそうです)

あまりに描きすぎたせいか、1960年から翌年の1961年にかけて、肩こりから不眠症になってしまい、思うように作品を描くことができなった時期もあったそうです。

そんな中、楳図かずおさんは、少女漫画には、「まつげは3本まで」「男の子は出さないでほしい」など、制約が多いことが次第に分かり、自分の実力不足も痛感したため、小女誌から一度撤退して自由な貸本に戻ることにしたそうですが、

この頃、「恐怖漫画」に目覚めたそうで、1960年には、「たのしい六年生」に、異常心理サスペンス「人形少女」を連載します。

(「人形を子どものように育てている夫婦がいる」という実話からヒントを得て描いたそうです)

楳図かずおの「人形少女」

25歳の時に「口が耳までさける時」を発表し、「恐怖漫画」という新ジャンルを確立していた

そして、楳図かずおさんは、1961年、25歳の時には、雑誌「虹」に、蛇である継母を描いた物語「口が耳までさける時」を発表すると、この作品を「恐怖漫画」と名付けたのだそうです。

楳図かずおの「口が耳までさける時」
「口が耳までさける時」

実は、これまで、このような作品は、「怪奇漫画」「スリラー漫画」と呼ばれており、「恐怖漫画」という言葉を作ったのは、楳図かずおさんが初めてだったそうで、

その後、楳図かずおさんは、自ら確立した「恐怖漫画」のジャンルに活路を見出しているのですが、

その理由について、

いろいろ悩んでたんですけど、高校出てプロでやっていくときにまわりを見渡すと、SFはね手塚治虫さんがやっていますからね、やってもね・・・ダメですので。

で見ると、”恐怖”というジャンルがなかったんですよ。スリラーと怪奇はあったんです。でも”恐怖”というのはなくて、(中略)もうここでやろう!と。オリジナリティだー、ここだぁとか思いましたですね。

そもそも恐怖漫画を描こうと思ったのは、18歳でプロになった時、みんなに読んでもらうにはインパクトがあって、ほかの人がやっていないものを描かなくてはならないと考えて。

当時は怪物や幽霊が出てくるような漫画はあっても、心理を描く恐怖漫画はまだなかったので、「あ、ここだ! このジャンルにしよう」と思ったんです。

直感的でしたが、どこで一歩を踏み出すかを考えたのはよかったです。陸で生きるか海で生きるかとか、肉食か草食かが原始時代の生物の存亡の分かれ目になったりするでしょう。なんだか、それに近いところがあったと思います。

と、語っています。

27歳の時に「猫面」を発表

そんな楳図かずおさんは、1963年、27歳の時には、貸本出版社で「猫面」という時代劇作品を発表しているのですが、この作品は、楳図かずおさんの中で「恐怖漫画」の手法をはっきりと確立した、とても重要な作品だそうで、

楳図かずおさんは、この「猫面」について、

少女向けマンガでは、怖い話は恨みつらみの心理描写が多いのですが、「猫面」では男性的要素を加え、残酷や暴力による恐怖を描いています。この心理面の恐怖と行動面の恐怖の両方が合わさって、この作品はうまくいったと思います。

と、語っています。

楳図かずおの「猫面」
「猫面」より。

27歳の時に大阪の貸本漫画家の先輩・佐藤まさあきに誘われ上京

楳図かずおさんは、1963年8月、27歳の時には、大阪の貸本漫画家の先輩だった、佐藤まさあきさんに誘われて上京すると(この頃、貸本出版社は全国的に衰退しており、大阪の出版社は軒並み倒産していたそうです)、

池袋にある、佐藤まさあきさんの事務所に3年間居候した後、一人暮らしを始めたそうです。

27歳の時には「劇団ひまわり」の青年部に入部して俳優としても活動していた

ちなみに、この頃(1963年)、楳図かずおさんは、漫画家だけでは生計が立てられなかったようで、年齢を10歳サバを読み「劇団ひまわり」の青年部に入部し、俳優業もしていたといいます。

(当時、映画がまだ活気のあった時代だったため、エキストラでも、それなりに稼ぐことができたのだそうです)

29歳の時には俳優の久保新二に同居を提案していた

そして、1965年には、映画「兵隊やくざ」や、NHKの朝の連続テレビ小説「たまゆら」のロケで、当時駆け出しの俳優で、同じ「劇団ひまわり」青年部所属の久保新二さん(後のポルノ俳優)と知り合うと、

久保新二さんは、自宅が千葉県で、都内に通うのにお金も時間もかかったことから、楳図かずおさんが同情し、同居を提案すると、久保新二さんは、喜んでこの誘いを受け入れたそうで、西池袋の目白3丁目にあった、楳図かずおさんのアパートで、二人の同居生活が始まったのだそうです。

「兵隊やくざ」出演時の楳図かずお
「兵隊やくざ」出演時の楳図かずおさん。

ただ、4畳半1間、トイレはボットン式の共同、お風呂はなく、あるのは小さな台所だけ、という小さな部屋だったことから、なんと、二人は、毎晩、一つの布団に入って、ケンカをすることもなく、寝ていたのだそうです。

ちなみに、久保新二さんによると、楳図かずおさんは、毎日、腹ばいになって、気持ちの悪い漫画を描き、

(久保新二さんには、まるで理解できなかったそうです)

お昼前後に家を出て、出版社(小学館)まで作品を持ち込みに行くのが日課だったそうですが、交通費がもったいないとの理由で、往復で15キロの距離を歩いていたそうで、

そんな生活の中でも、楳図かずおさんは、

何が食べたい?

と、久保新二さんを気遣い、野菜炒め、おから、茹でたじゃがいもなど、毎日ご飯を作ってくれたそうで、質よりも量だった食事でも、久保新二さんは、楳図かずおさんの気持ちがとてもうれしかったそうです。

とはいえ、久保新二さんは、楳図かずおさんより一回りも年下で、しかも居候のくせに、炊事、洗濯、掃除、何ひとつ手伝わず、全部、楳図かずおさんにお任せだったそうで、半年ほど経った頃、さすがに申し訳なく思ったそうで、

その頃ちょうど知り合った人の家に引っ越しをし、二人の同居生活は終わったのだそうです。

(楳図かずおさんは、いつ頃かは不明ですが、「劇団ひまわり」は、上層部の人間から宗教への入信を勧められたのに嫌気が差して退団したそうです)

楳図かずおの30代の頃

30歳の時に少女漫画雑誌「週刊少女フレンド」に連載した「ねこ目の少女」「へび女」がブームを巻き起こしていた

そんな楳図かずおさんは、1966年、30歳の時には、少女漫画雑誌「週刊少女フレンド」に「ねこ目の少女」「へび女」などの怪奇漫画を発表すると、たちまちブームを巻き起こし、恐怖漫画家として、一躍全国にその名を知られるようになります。

ちなみに、「ねこ目の少女」のラストシーンは、思わず目を逸らしたくなるほどリアルな描写なのですが、この描写は少女読者を恐怖のどん底へと引きずり込んだほか、このブームにより、普段は少女漫画を読まない少年たちも、こぞって「ねこ目の少女」を読んだのだそうです。

楳図かずおの「ねこ目の少女」
「ねこ目の少女」より。

31歳~35歳の時には、「週刊少年キング」「週刊少年マガジン」ほか数多くの少年漫画雑誌で連載を持っていた

その後、楳図かずおさんは、1967年~1976年(31歳~40歳)にかけて、少年漫画雑誌「週刊少年キング」で「猫目小僧」を連載するほか、

  • 1967年(31歳)「死者の行進」(週刊少年マガジン)
  • 1968~1969年(32歳~33歳)「SF異色短編集」(ビッグコミック)
  • 1968年(32歳)「映(かげ)像」(ティーンルック)
  • 1968年(32歳)「蝶の墓」(ティーンルック)
  • 1969年(33歳)「おそれ」(ティーンルック)
  • 1969年(33歳)「おろち」(週刊少年サンデー)
  • 1970年(34歳)「イアラ」(ビッグコミック)
  • 1970年(34歳)「アゲイン」(週刊少年サンデー)
  • 1971年(35歳)「怪獣ギョー」(週刊少年サンデー)

など、様々な漫画雑誌で、少年向けの作品を連載しているのですが、

最も多忙な時期には、月刊誌・週刊誌あわせて5本の連載作品を持っていたといいます。

36歳の時に「漂流教室」を「週刊少年サンデー」で発表

そして、1972年~1974年(36歳~38歳)には、荒廃した未来世界に校舎ごと送られてしまった主人公の少年・高松翔と小学校児童たちの生存競争を描いた「漂流教室」を「週刊少年サンデー」で連載すると、

楳図かずおさんのもともとの持ち味である恐怖漫画テイストに、意表をついた物語の展開が読者に衝撃を与えたほか、食料争いやペストなどの病気を盛り込んだストーリーの奥深さから、現在も名作として語り継がれています。

楳図かずおの「漂流教室」
「漂流教室」

楳図かずおは40歳の時にギャグ漫画「まことちゃん」を発表

また、楳図かずおさんは、1976年、40歳の時には、ギャグ漫画「まことちゃん」を「週刊少年サンデー」で連載しているのですが、

これまでの恐怖漫画とは打って変わり、おかっぱで、常に鼻水を垂らした幼稚園児のまことちゃんが巻き起こす、いたずら、下ネタが満載のギャグ漫画となっています。

楳図かずおの「まことちゃん」
「まことちゃん」

楳図かずおは59歳の時に漫画を休筆していた

その後、楳図かずおさんは、1982年、46歳の時には、「ビッグコミックスピリッツ」で「わたしは真悟」の連載を始めると、以降、主に「ビッグコミックスピリッツ」で連載していたのですが、1995年、59歳の時、連載中だった作品「14歳」を完結後、休筆しています。

楳図かずおの「わたしは真悟」
「わたしは真悟」

ちなみに、休筆の理由は、長年の執筆により、腱鞘(けんしょう)炎が悪化したことだと言われていたのですが、実は、それだけではなかったようで、

楳図かずおさんは、

ずっと漫画書いていても評価も何もなく、褒められることって全然なくて、『もう怖い漫画はないと思う』とか言われたこともありました。それだったら残っていても悪いし、面白くも何もないので、それでやめちゃったんです。

ちょうどそのころ60歳ぐらいで、本当は70歳ぐらいまで書こうかなと思ったんですが、それでも残念とかそういう気持ちはなくて、単純に切り替えだけで、『さあ、あとは今までやってなかったようなことをしよう』と考えを変えました

と、語っています。

また、楳図かずおさんは、

「14歳」連載中の出来事ですが、新人の担当編集者が仕事場に入ってくるなり、「手はこうやって描くんですよ」と、(中略)、その瞬間、この作品を最後にして、もう漫画を描くのはやめようと思ったんです。

とも、語っています。

楳図かずおは78歳の時に長編ホラー映画「マザー」で初監督を務めていた

こうして、漫画を休筆した楳図かずおさんは、60代~70代は、テレビ、雑誌などでタレント活動をするかたわら、2014年、78歳の時には、長編ホラー映画「マザー」で初の監督も務めています。

ちなみに、ストーリーは、自叙伝の出版が決まった楳図かずおさんと編集者の周辺に怪奇現象が続出し、亡き母の怨念がそこにあったことを知るというもので、片岡愛之助さんが楳図かずおさんの役を演じています。

楳図かずおの長編ホラー映画「マザー」
映画「マザー」より。片岡愛之助さんと舞羽美海さん。

(楳図かずおさんは、プライベートでも、英語、イタリア語、ドイツ語、フランス語、スペイン語の勉強を始めるなど、これまでできなかったことに積極的に打ち込んでいたそうです)

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楳図かずおの80代の頃

82歳の時に「わたしは真悟」が国際漫画フェスティバルで遺産部門に選ばれていた

そんな楳図かずおさんは、2018年1月には、「わたしは真悟」が、フランス・アングレームで開催された「第45回 アングレーム国際漫画フェスティバル」で「永久に残すべき作品」として「遺産部門」(LA SELECTION patrimoine)に選ばれています。

(「わたしは真悟」では、自我が芽生えた産業用ロボットがネットワークを通じて進化していく姿を描いており、デジタル化していく社会に警鐘を鳴らし、人間とは何かを問いかけた作品となっています)

「第45回 アングレーム国際漫画フェスティバル」
「わたしは真悟」のフランス語版。

86歳の時に27年ぶりとなる新作「わたしは真悟」の続編を発表

すると、このことで、再び、創作意欲を取り戻した楳図かずおさんは、2022年、86歳の時には、「14歳」以来、実に27年ぶりとなる新作を発表しています。

この新作は、紙の漫画ではなく、101点の連作絵画(縦40センチ×横30センチほどの紙に、絵を鉛筆で素描し、その上にアクリル絵具で着色して描かれたもの)で、

内容は、世界でも評価された代表作「わたしは真悟」の続編となっており、4年がかりで完成させたのだそうです。

ちなみに、楳図かずおさんは、

それまで(国際的な)賞なんて考えたこともなくて、どこからも、何ももらったことなかったので、だから嬉しかったですね。それで『あ、描くわ』となったんです。

だから新作は日本で見ていただくだけじゃなく外国の人に見ていただきたいっていうのが大きいですね。(アングレームのある)フランスだったら、ルーブル美術館に飾ってもらって見てもらいたい

と、語っており、

楳図かずおさんの創作意欲はまだまだ衰えそうにありません。

楳図かずおの妻は?結婚している?家(まことちゃんハウス)は廃墟になっていた!に続く

楳図かずおの「わたしは真悟」の続編
「わたしは真悟」の続編

お読みいただきありがとうございました

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