20代前半頃からラジオドラマで声優の仕事を始めると、以降、「オバケのQ太郎」(西郷強(ゴジラ)役)、「ジャングル黒べえ」(黒べえ役)、「ドカベン」(殿馬一人役)、「銀河鉄道999」(車掌役)、「ドラえもん」(骨川スネ夫役)、「怪物くん」(ドラキュラ役)、「忍者ハットリくん」(ケムマキ・ケムゾウ役)、など、数多くのアニメ作品で主要キャストを務め、人気を博した、肝付兼太(きもつき かねた)さん。

そんな肝付兼太さんは、中学時代にラジオドラマに夢中になり、声を使った仕事に憧れるようになると、高校時代には、演劇部を自ら設立し、木下順二の「夕鶴」を上演したことがきっかけで俳優になる決心をしたそうで、

高校卒業後は、高島屋(百貨店)に就職するも、10ヶ月で退職して、本格的に俳優を目指し、1956年、20歳の時には、映画「こぶしの花の咲くころ」で俳優デビューを果たしたといいます。

今回は、肝付兼太さんの、生い立ち(幼少期)から俳優デビューまでをご紹介します。

肝付兼太

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肝付兼太のプロフィールは?

肝付兼太さんは、1935年11月15日生まれ、
鹿児島県揖宿郡喜入町(現・鹿児島市)出身
東京府東京市中野区(現・東京都中野区)、板橋区(現・東京都板橋区)育ち

血液型はAB型、

学歴は、
板橋区立板橋第四小学校
⇒帝京中学校・高等学校卒業

趣味は、スポーツ全般(主にゴルフ)、鉄道模型、

特技は、落語、浪曲、

命日は、2016年10月20日で、80歳で亡くなっています。

肝付兼太の本名は?先祖は戦国大名

肝付兼太さんの本名は、「肝付兼正」(きもつき かねまさ)ですが、先祖は鹿児島市喜入町を関ヶ原の戦い以前から長く治めた戦国大名の肝付氏だそうです。

ちなみに、愛称は、肝ちゃん、肝さんです。

肝付兼太は3歳の時に鹿児島から東京に家族で移り住んでいた

肝付兼太さんは、戦国大名の肝付氏の子孫であるお父さんのもと、鹿児島で誕生すると、3歳の時に東京府東京市中野区(現・東京都中野区)に移り住み、4歳の時に東京府東京市板橋区(現・東京都板橋区)に移り住んだそうです。

肝付兼太は幼い頃は熱く厳格な薩摩武士の子孫としての教育を受けて育てられていた

肝付兼太さんは、幼い頃、ケンカに負けて帰って来ると、お父さんに、

武士の誇りはどうした

と、厳しく叱られるなど、

熱く厳格な薩摩武士の子孫としての教育を受けて育てられたそうです。

肝付兼太は幼い頃は内向的な性格で泣き虫だった

ただ、肝付兼太さんは、幼い頃は、内向的な性格で、戦時中、群馬県利根郡水上村(現・同郡みなかみ町)湯檜曽に学童疎開した際には、泣く泣く汽車に乗せられると、疎開先に到着した日の夜から、東京の両親を恋しがって涙を流し、以降、毎晩、泣き明かして暮らしていたそうです。

そして、ついに、そんな肝付兼太さんをもてあました教師により、両親のもとに返されてしまったそうです。

その後、肝付兼太さんは、山梨県中巨摩郡竜王村(現・甲斐市)竜王に疎開させられたそうですが、疎開者は目の敵にされていたことから、村の子供たちに、いろいろと意地悪をされ、やはり、泣き明かす毎日を送っていたといいます。

肝付兼太は9歳~10歳の時に東京に帰郷すると内向的だった性格が陽気で明るい性格に変わっていた

それでも、竜王には1年半ほどおり、終戦後に東京の実家に帰郷すると、一転、内向的だった性格が、よくおしゃべりするような、陽気で明るい性格に変わったそうで、

肝付兼太さんは、この変化について、

抱きつきたいくらい感激していた

最高に嬉しかったんだ

と、語っており、

東京に帰郷したことが無性に嬉しく、かつての遊び仲間が同胞のように思えたのだそうです。

肝付兼太は中学時代はラジオドラマに夢中になり声優に憧れるようになっていた

肝付兼太さんは、小学生の時、私立中学を受験するも失敗し、落ち込んだそうですが、そんな時、ラジオドラマを聴いて気を紛らわすようになったそうで、

中学生になったある日のこと、NHKの「話の泉」というラジオ番組の公開録画を観に行った際、「面白そうな世界だな」「この場所で仕事が出来たら…」と思ったのがきっかけで声優に憧れるようになったそうで、

肝付兼太さんは、

こう、なんて言うかね。ラジオドラマだから声だけなんだけど、聴いてる人をどんどん引き込んでいくような役者さんの演技にね。「いいなぁ」と思った事がきっかけかなぁ。

と、語っています。

肝付兼太は中学生時代は映画俳優にも憧れていた

実は、肝付兼太さんは、映画俳優にも憧れており、中学2年生の時には、木下惠介監督の映画「少年期」のオーディションを受けたそうですが、2次までは受かったものの、カメラテストであえなく落選しまったそうです。

すると、おばあちゃんから、

映画俳優ってのは、主役の後ろで『御用、御用』とやっているような人だって、みんな鼻筋が通ってるいい男ばかりなんだよ

と、諭(さと)され、

だったら、顔が出ないラジオドラマならできるのではと、ラジオドラマに声のみで出演する「声優」の仕事を目指すようになったのだそうです。

肝付兼太は高校時代に演劇部を立ち上げていた

そんな肝付兼太さんは、中学卒業後、高校に進学すると、演劇部に入ろうと思ったそうですが、運動が盛んな高校だったため、演劇部のような文化系の部活動がなかったそうで、演劇好きな先生のサポートを受けながら、自ら演劇部を立ち上げたそうです。

肝付兼太は高校時代に役者になる決心をしていた

そして、演劇部の活動で、木下順二の「夕鶴」を上演すると、このことがきっかけとなり、芝居がやりたいという気持ちが自分のなかでどんどん強くなっていき、高校を卒業する頃には「役者になる」と、心に決めたのだそうです。

肝付兼太は高校卒業後は高島屋(百貨店)に就職していた

肝付兼太さんは、高校卒業後は、大学進学も考えていたそうですが、その頃、ちょうど、お父さんが他界し、生活が厳しくなったため、大学進学を断念し、高島屋(百貨店)に就職したそうです。

しかし、その一方で、どこかで演劇の勉強ができないものか、どうすればラジオドラマに出演できるようになるのかをずっと考えていたそうで、一日一日遅れをとっているような気がして早く百貨店を辞めたかったそうです。

(当時は、声優の専門学校などがない時代だったため、どうしていいか分からず、途方に暮れていたそうです)

そんな中、知り合いから、

ラジオドラマの役者さんは劇団に所属している人が多いから、そういう劇団に入ったらいいんじゃないか

と、教えてもらったそうで、

さっそく、(まだ6ヶ月しか勤めていなかった)百貨店を辞めて、劇団に入ろうとしたそうですが、

職場の先輩から、

もう少し我慢しろ。10ヵ月以上勤めたら、失業保険がもらえるぞ

と、教えてもらったことから、

肝付兼太さんは、先輩のアドバイスに従い、10ヶ月経ってから百貨店を退職したのだそうです。

(肝付兼太さんは、仕事に身が入らず、ダメ社員だったそうですが、職場でも、役者になりたいと言っていたことから、失業保険のアドバイスをくれたのは、先輩なりに自分を応援してくれていたのだと思っているそうです)

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肝付兼太は20歳の時に映画「こぶしの花の咲くころ」の床屋の青年役(端役)で俳優デビュー

こうして、百貨店を退職した肝付兼太さんは、その後、「劇団七曜会」に入団すると、靴磨きなどのアルバイトをしながら稽古に励んだそうで、

1956年、20歳の時には、映画「こぶしの花の咲くころ」のオーディションを受けると、見事合格し、床屋の青年役で俳優デビューを果たしたのだそうです。

(台本の一番最後に名前が書いてある脇役だったそうですが、ちゃんとセリフもあったそうです)

そんな肝付兼太さんは、少し無謀かとも思ったそうですが、これをきっかけに一本立ちしようと考え、アルバイトを辞め、俳優一筋で行くことにしたのだそうです。

「【画像】肝付兼太の若い頃はスネ夫や殿馬や999の車掌!経歴を時系列まとめ!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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