1952年、16歳の時、高校を中退して、五代目柳家小さんさんに弟子入りすると、たちまち、才能を開花させ、1966年、30歳の時には、「笑点」を企画して、初代司会者として絶大な人気を博すほか、1971年、35歳の時には、参議院議員通常選挙に全国区から無所属で立候補し、初当選を果たした、立川談志(たてかわ だんし)さん。
今回は、そんな立川談志さんの、若い頃からの活躍や経歴を、「笑点」スタートから時系列でまとめてみました。
「立川談志の生い立ちは?小5で落語家を目指し高校中退して柳家小さんに弟子入りしていた!」からの続き
立川談志が30代の時には「笑点」をスタートさせるほか参議院議員選挙に立候補して当選していた
30歳の時に「笑点」を企画し「金曜夜席」としてテレビ放送が開始されていた
立川談志さんは、1966年5月15日、テレビ放送で、「笑点」を企画し司会を務めると、持ち前のブラックユーモアを生かした機知に富んだ掛け合いを演じ、人気を博しているのですが、
実は、1960年代半ば、テレビの普及に押され、寄席に足を運ぶ人が減った状況に危機感を抱き、
落語家もどんどんテレビに出るべきだ
との思いから「笑点」を企画し、
五代目三遊亭圓楽さんに、
寄席でやっている大喜利をテレビでやろうじゃないか
と、持ちかけ、テレビ局にこの企画を売り込んだといいます。
(落語ではなく、あえて大喜利をメインとしたのは、落語は(噺の)前後にしかコマーシャルを入れられないところ、大喜利は途中でコマーシャルを入れることができたからだそうです)
その結果、前進番組「金曜夜席」が隔週金曜日に放送されるようになると、立川談志さん、五代目三遊亭圓楽さん、柳亭小痴楽(後の春風亭梅橋)さん、三遊亭金遊(後の三遊亭小円遊)さん、桂歌丸さんなどの若手による言いたい放題の大喜利が好評を博して番組は1年半続き(これで「笑点」の基礎が固まり)、その後、日曜夕方に「笑点」がスタートしたのでした。
(「金曜夜席」では、立川談志さんが演芸コーナーの司会、五代目三遊亭圓楽さんが大喜利コーナーの司会、というローテーションだったそうですが、後にどちらも立川談志さんが司会を務めるようになっています)
30歳から32歳の時は「笑点」の視聴率低下でメンバーとの関係が悪化していた
こうして、「笑点」がスタートすると、その直後は、立川談志さんの持ち前のブラックユーモアを生かした機知に富んだ掛け合いが中心となり、マスコミ関係者には好評だったそうですが・・・
視聴率が取れず、他のメンバーとの関係も悪化したそうで、立川談志さんは、メンバーチェンジを図るのですが、新メンバーとなったことで、視聴率はさらに下降し、再び、局側から、初代メンバーが呼び戻されます。
33歳の時に「笑点」を降板していた
しかし、「金曜夜席」の頃のように、大人にウケるブラックジョークをやりたい立川談志さんは、「笑点」は放送時間が日曜夕方のため、それは困る、と反対する、スポンサー、他のメンバー、スタッフと対立したそうで、
結局、立川談志さんは、1969年11月、33歳の時に、「笑点」を降板したのでした。
ちなみに、初代メンバーだった桂歌丸さんは、著書「座布団一枚!桂歌丸のわが落語人生」で、立川談志さんが降板するまでの経緯について、
談志さんとしても(視聴率が取れず)イライラが募ったんでしょう。いつしか、われわれ解答者とぶつかるようになったんです。それで、いろいろあった末に、局の方に、談志さんを取るか、われわれ解答者を取るかと膝詰め談判しました。
そしたら、当然といえば当然ですけど、談志さんを選ばれた。だから、われわれ解答者は、番組をいったん降りたんです。そこで、談志さんは新たに若手メンバーを選んで、番組を続行させたわけです。
ところが、われわれがいたころはどうにか二桁取っていた視聴率が、新メンバーになったら一桁に落っこっちゃった。
それで、慌てた局の方が「戻ってくれないか」って、元のメンバー個々に打診をしてきたんです。そのときにわれわれも条件を出して、談志さんは司会を降りることになりました。
と、綴っています。
(立川談志さんは、「笑点」降板後、スポンサーだったサントリーの商品を絶対飲まなかったそうで、それほど腹に据えかね、根に持っていたそうです)
33歳の時に衆議院議員選挙に出馬していた
また、立川談志さんは、1969年12月、突然、第32回衆議院議員総選挙に旧東京8区から無所属で立候補を表明すると、組織に頼らない選挙にもかかわらず、2万票近くも集めるのですが、惜しくも落選しています。
(当時は中選挙区制で、立川談志さんが出馬したのは中央区、台東区、文京区を含む東京8区だったそうです)
1969年12月投票の総選挙で東京8区に出馬した、立川談志さん。
33歳の時にラジオ番組「談志・円鏡 歌謡合戦」が人気を博す
そして、同年(1969年)には、月の家圓鏡(のちの八代目橘家圓蔵)さんと共演したラジオ番組「談志・円鏡 歌謡合戦」がスタートすると、
木魚を叩きながらのナンセンスなやりとりがリスナーにウケ、1973年まで続く人気番組となっています。
35歳の時に参議院議員選挙に立候補し当選していた
そんな中、立川談志さんは、1971年6月には、第9回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で立候補すると、初当選を果たしているのですが、
立川談志さんは、選挙に出馬した理由について、
立候補はまったくの興味本位でした。(中略)折角なんだから、酒が美味くて、女がキレイで、土地が高い所から出ようじゃねえか。だから銀座から出よう。
この発想はどこから来たかと聞かれたら、直感からだ、そして感じたものをそのまま実行するのを英知という、と
と、語っています。
35歳の時に目黒の権之助坂に寄席「目黒名人会」を設立
こうして、立川談志さんは、国会議員としても活動するのですが、一方で、落語にも精力的に取り組み、紀伊國屋ホールで「ひとり会」を毎月開催するほか、
1971年12月には、東京・目黒の権之助坂に寄席「目黒名人会」を作ると、自ら出演するのはもちろんのこと、師匠たちに出演を依頼するなど、総合プロデュースも担っています。
39歳の時に三木内閣の沖縄開発政務次官に就任するも二日酔いのまま記者会見に出席し批判を浴びていた
また、立川談志さんは、1975年12月、39歳の時には、三木武夫内閣の沖縄開発政務次官に就任しているのですが、
就任時の会見で、議員の選挙資金について、
子供の面倒を親分が見るのは当然
と、発言したことが問題となります。
さらに、翌年1976年1月には、政務次官初仕事として、海洋博視察を兼ねて沖縄を訪問すると、沖縄には趣味のスキューバダイビング仲間が大勢いたことから、仲間たちが歓迎会を開いてくれたそうで、立川談志さんは、翌日、二日酔いのまま記者会見に出席したそうですが、
これに対して、怒った地元沖縄のメディア記者たちが、意地悪な質問に終始し、立川談志さんをイラつかせたそうで、
あなたは公務と酒とどちらが大切なんですか
という質問に対し、
立川談志さんが、
酒に決まってるだろ
と、答えると、会場内は騒然となったといいます。
さらに、立川談志さんは、詰問する記者に対して退席を命じ、会見を打ち切ろうとしたことから、さらなる批判を浴びたのでした。
(翌日には、全国紙が一斉に朝刊で、立川談志さんを糾弾する論調の記事を書いています)
立川談志が40代の時は沖縄開発庁政務次官を辞任させられ、自民党を離党すると、翌年の選挙は出馬せず落語に専念していた
40歳の時には沖縄開発庁政務次官を辞任させられ、自民党を離党していた
そんな立川談志さんは、弁明を行うはずの参議院決算委員会を、寄席を理由に欠席したため、自民党内部からも反発が起こり、沖縄開発庁政務次官を辞任させられているのですが、
立川談志さんは、その裁断を下した自民党に不満を持ち、自民党を離党して元の無所属に戻っています。
1976年1月26日、「沖縄開発庁政務次官を辞任し、自民党を離党する」と語る立川談志さん。
41歳の時には選挙には出馬せず、以降は落語に専念していた
その後、立川談志さんは、政界に嫌気が差し、1977年には、選挙の2ヶ月前に不出馬を宣言し、以降、落語に専念しているのですが、
立川談志さんが高座に上がると、満員の客席から割れんばかりの拍手が起こったそうで、
立川談志さんが、
やっと最下位で当選して、政務次官になったと思ったら、やられた!
と、言いながら、頭を抱えると、お客さんに大ウケ。
さらには、立川談志さんが、自身をかばいもせずに辞任させた植木光教沖縄開発庁長官を、
あのバカ、ただじゃぁおかねえ。今度あいつの選挙区で、共産党から出て落としてやる
と、批判すると、さらなる大爆笑が起こり、
俺はイデオロギーより恨みを優先させる人間だからな
と、言うと、客席はひっくり返ったように笑いの渦に包まれたのだそうです。
(立川談志さんは、この時に、「芸に開眼した」と語っています」
47歳の時に落語協会を脱会し落語立川流を創設して家元制度を確立していた
そんな立川談志さんは、1983年、47歳の時には、落語協会真打昇進試験制度運用をめぐり、落語協会会長だった、師匠・五代目柳家小さんと対立すると、
同年、落語協会を脱会し、落語立川流を創設して家元制度を確立し、初代家元となっています。
ちなみに、1983年の落語協会真打昇進試験では、林家源平さん、柳家小里んさん、林家種平さん、林家上蔵(現・三代目桂藤兵衛)さん、蝶花楼花蝶(七代目蝶花楼馬楽)さん、林家正雀さん、古今亭八朝さん、林家らぶ平 (現・らぶ平(フリー))さん、立川談四楼さん、立川小談志(四代目喜久亭寿楽)さんの10名が受験したそうですが、
理事長だった立川談志さんが不在中、立川談志さんの弟子2人(談四楼さんと小談志さん)が不合格となる一方で、初代林家三平さんの弟子で、力量が明らかに劣ると思われた林家源平さんが合格しており、
(他の合格者は柳家小里んさん、蝶花楼花蝶さん、林家正雀さん)
立川談志さんは、この試験の結果と考察基準に意義を唱え、大半の弟子と共に脱会したのだそうです。
立川談志は60代の時に食道ガンになるも回復し再びメディアに出演していた
61歳の時に食道ガン
また、立川談志さんは、1997年、61歳の時には、食道ガンが発覚し、外科手術により摘出しているのですが、この時は、白板症(ガンの前段階)と診断されたそうで、立川談志さんは、”癌もどき”と自嘲しています。
(立川談志さんは、記者会見ではタバコを吸っているのですが、5代目三遊亭圓楽さんの著書によると、その後は毎月定期健診に行っていたそうで、健康には人一倍気を遣っていたといいます)
1998年4月3日、声を出せないためバツ印付きマスクを着用して退院した立川談志さん。
68歳の時には再びメディアに登場
そして、2004年、68歳の時には、野末陳平さんとともにトークバラエティ番組「談志・陳平の言いたい放だい」をスタートすると、
以降、
- 2005年(69歳)には、「おとなの時間割「談志の遺言」」(ラジオ)
- 2007年(71歳)には、「立川談志・太田光 今夜はふたりで」(ラジオ、爆笑問題の太田光さんと共演)
- 2007年(71歳)には、「筑紫哲也NEWS23」(テレビ)
- 2008年(72歳)には、「立川談志 最後のラジオ」(ラジオ)
- 2008年(72歳)には、「立川談志 きょうはまるごと10時間」(テレビ)
などのラジオやテレビドラマに出演しています。
「談志・陳平の言いたい放だい」より。立川談志さんと野末陳平さん。
立川談志の死因は喉頭ガン
そんな中、立川談志さんは、2008年、72歳の時、咽頭ガンが判明したそうで、放射線治療などで鎮静化したそうですが、2010年、74歳の時には再発。
その際、主治医から声帯の摘出手術を勧められたそうですが、立川談志さんは、「プライドが許さない」と、これを拒絶したそうで、
ガンを表面のみ取り除く処置だけ施(ほどこ)し、懸命に声を出して2011年3月、75歳まで高座に上がり続けたのだそうです。
ただ、2011年3月下旬、ガンの進行で呼吸が苦しくなる状態に陥ると、窒息する恐れがあったことから気管切開をして管をのど元に通したそうで、切開後の8ヶ月は入院と自宅療養を繰り返していたそうですが・・・
10月27日に病状が急変して心肺停止の状態になり、一時的に回復したものの意識は戻らず、2011年11月21日、喉頭癌により、75歳で他界されたのでした。
「立川談志の死因は喉頭ガン!声帯摘出手術を噺家のプライドから拒否していた!」に続く
破天荒な行動や毒舌で”落語界の反逆児”と言われた一方、人間の弱さや愚かさを認めた上で、人間らしさを描き出す落語を生涯を通して求め続け、”不世出の落語家”と称された、立川談志 …