1952年、16歳の時、5代目柳家小さんに弟子入りすると、みるみるうちに頭角を現し、1966年には、「笑点」を企画して、初代司会者として絶大な人気を博した、立川談志(たてかわ だんし)さん。
そんな立川談志さんは、小学5年生の時、叔父さんに連れて行ってもらった「浅草松竹演芸場」で、初めて生の落語を見ると、たちまち話芸の虜(とりこ)になり、落語家を志したそうで、高校中退後の16歳の時には、柳家小さんに弟子入りしたといいいます。
今回は、立川談志さんの生い立ち(幼少期から真打ち昇進まで)をご紹介します。
立川談志のプロフィール
立川談志さんは、1936年1月2日生まれ、
東京府東京市小石川区(現・東京都文京区)の出身、
学歴は、
東京中学校
⇒東都高等学校中退
趣味は、手塚治虫の漫画を読むこと、昭和初期から1960年代の懐メロとコミックソングのレコードを収集すること、
ちなみに、本名は、松岡克由(まつおか かつよし)です。
立川談志が幼い頃は住居を転々としていた
立川談志さんは、三菱重工の社用運転手をしていたお父さんのもと、東京府東京市小石川区で誕生すると、幼い頃は、小石川原町、白山御殿町、蒲田の糀谷、深谷(疎開)、仙台の根白石、浦賀、下丸子、と住居を転々としたそうで、
1942年、6歳の時、ようやく、東京府東京市大森区鵜の木に定住したそうです。
立川談志は小学5年生の時に初めて生の落語を見て夢中になっていた
そんな中、立川談志さんは、小学5年生の時、伯父さんに連れられて「浅草松竹演芸場」に行ったそうですが、初めて観た生の落語(話芸)に心を奪われたそうで、
ずっと寄席に居たい、寄席にずっと居るためには落語家になるしかない
と、寄席に夢中になったそうです。
立川談志は16歳の時に高校を中退し5代目柳家小に弟子入りしていた
そんな立川談志さんは、1951年(16歳)、東京中学校卒業後は、一旦は東都高等学校に進学したそうですが、4月には早くも中退すると、新宿・末廣亭の支配人だった芸能評論家の真山恵介氏の世話で、5代目柳家小さんさんに弟子入りしたそうで、
本名の「克由(かつよし)」の一字を取って、「柳家小よし」と名乗り、新宿末廣亭において「浮世根問」でデビューしたのでした。
ちなみに、落語界では、「見習い」⇒「前座」⇒「二つ目」⇒「真打」という階級が設けられており、「真打」まで昇進した後、由緒ある「名跡」を襲名するのですが、
立川談志さんは、なんと、柳家小さんさんとの初対面で、いきなり、「名跡」の「(柳家)小三治をくれ」と平然と言ったといいます。
立川談志は入門してすぐに頭角を現すも素行の悪さが問題となっていた
そんな立川談志さんは、入門後すぐに頭角を現し、初の高座から好評を博したそうですが、素行の悪さが問題となっていたそうで、
ある時、7代目・林家正蔵さんが若手を集め、覚えやすいようにと、噺(はなし)を区切って教えていた際には、
立川談志さんは、
師匠、しみったれないで、一気に教えてくださいよ
と、平気な顔で言ったといいます。
また、立川談志さんは、宴会に30分も遅刻したことがあったそうで、その際、落語協会会長の8代目・桂文楽さんに、
いまの若い者はなっちゃいねぇ
と、怒鳴られたそうですが、
しょげることなく、最後まで残り、平然とお酒を飲み、料理を食べていたといいます。
(立川談志さんは、師匠の柳家小さんさんとも幾度となくトラブルを起こし、破門された回数は80回を超えたそうですが、柳家小さんさんに怒られるたびに、「あたしも師匠の年になればわかりますよ」と返していたといいます)
立川談志は18歳の時に二つ目に昇進すると落語のほかにもコントや漫談などでマルチな才能を開花させていた
それでも、立川談志さんは、1954年3月、18歳の時には、二つ目に昇進して「柳家小ゑん」と改名すると、落語だけにとどまらず、
日劇ミュージックホールや新宿松竹文化演芸場にも定期的に出演して、コントや漫談も披露するほか、アメリカンジョークを習得してキャバレーやストリップ劇場の幕間でスタンダップコメディーも披露するなど、マルチな才能を開花させ、ラジオやテレビにも引っ張りだことなります。
立川談志は27歳の時に真打に昇進するも通常の倍近くの10年かかっていた
そして、1963年4月、27歳の時には、ついに、真打に昇進し、「立川談志」を襲名しているのですが、
実は、立川談志さんは、(芸の力はあるものの)芸以外のところで問題があるという理由で、真打になるまで、通常の倍近くの10年もかかっています。
実際、1962年3月には、立川談志さんより入門が5年遅い、弟分の3代目・古今亭志ん朝さんが先に真打に昇進するほか、
(立川談志さんは、古今亭志ん朝さんに、「辞退しろよ!」と迫ったといいます)
同年10月には、立川談志さんより入門が3年遅い、5代目三遊亭圓楽さんも真打に昇進しており、
立川談志さんは、生涯最大の屈辱を味わったといいます。
そして、立川談志さんは、この時の悔しさと落語協会に対する不満を、後々まで引きずったといいます。
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