高校卒業後すぐに、親の反対を押し切って落語家の桂米丸さんに弟子入りすると、厳しくも優しい桂米丸師匠のもと、落語の技術ではなく、礼儀作法や立ち居振る舞いを叩き込まれたという、ヨネスケさん。

そんなヨネスケさんは、「前座」から「二つ目」になるまでの4年間は、絶対、実家には帰らないと心に決めていたといいます。

今回は、ヨネスケさんの、若い頃(桂米丸さんの内弟子時代)を時系列でご紹介します。

ヨネスケ

「ヨネスケの生い立ちは?父母は?中学から落語家志望!高卒で実家を出ていた!」からの続き

Sponsored Link

ヨネスケは18歳の時に桂米丸に弟子入りしていた(外弟子)

高校3年生の時、担任の先生からユーモア作家の玉川一郎さんを紹介してもらうと、玉川一郎さんから桂米丸さんを紹介してもらったヨネスケさんは、1967年、高校卒業後、すぐに桂米丸さんに弟子入りしたそうですが、

当初、新婚だったお兄さんの家から通っていると、やがて、桂米丸師匠から、

新婚のところに住んでいたら大変だろう、俺のところに来い

と、声をかけられたそうで、

ヨネスケさんは、桂米丸師匠の内弟子(住み込みの弟子)となったそうです。

(ヨネスケさんは、桂米丸師匠の最初の直弟子だったそうです)

ヨネスケは18歳の時に桂米丸の内弟子として修業を始めていた

ちなみに、実家が非常に貧しかったヨネスケさんにとって、師匠の家は、ピアノやテレビがある「リッチな世界」だったそうですが、

修業としての労働は欠かせず、内弟子時代は、朝6時に起床し、庭の掃除から廊下の雑巾がけ、窓拭き、廊下の雑巾がけをこなす毎日だったそうです。

(米ぬかを袋に入れた「ぬか雑巾」で床を磨き、艶を出す作業も弟子の務めだったそうです)

ヨネスケは18歳の時、桂米丸に礼儀作法や立ち立ち居振る舞いを叩き込まれていた

また、内弟子時代、ヨネスケさんが桂米丸師匠から叩き込まれたのは、落語の技術よりも、「箸の上げ下げ」をはじめとする礼儀作法や立ち居振る舞いだったそうで、

桂米丸師匠からは、

芸は教えないよ。芸は盗むもんだからな。その代わり、売れることを教えるよ

と、何度も言われたといいます。

実際、落語の稽古は、兄弟子である桂歌丸さんが代わりにつけてくれたそうで、

ヨネスケさんは、桂米丸師匠について、

僕はおやじがいないので、(桂米丸師匠は)父親のような存在でした。怒ることはなかったんですが、小言が多かったですね。礼儀も教わり育てていただきました

と、語っています。

ヨネスケは18歳の時、桂米丸の朝令暮改な一面も修業の一部として受け止めていた

一方で、桂米丸師匠は、プロ野球の長嶋茂雄さんのような天真爛漫(てんしんらんまん)なタイプで、

朝に「これをやれ」と指示したことをやっていても、夕方には忘れて「なんでこれをやったんだ」と怒る、予測不能な朝令暮改な一面もあったそうで、

弟子としては、昨日と今日で言うことが変わる師匠に対応する苦労もあったそうですが、ヨネスケさんは、それも”修業の一部”だと思っていたそうです。

ヨネスケは18歳の時、修行中の身でありながら桂米丸と温かい食事を囲んでいた

また、桂米丸師匠は、生活面では驚くほど優しかったそうで、ヨネスケさんは、修業の身でありながら、冷たいご飯を食べさせられたことは一度もなく、常に、師匠が起きるのを待って、師匠と一緒に温かい食事を囲んでいたといいます。

そして、桂米丸師匠は、とにかくおしゃれな人だったそうで、まだ、学生服しか持っていなかったヨネスケさんに、

好きな洋服を買ってこい

と、1967年当時としては大金である1万円をポンと渡してくれたり、わずか1〜2年しか着ていないアルマーニのコートを譲ってくれたこともあったそうです。

(おかみさんも優しい人だったそうで、貧しいヨネスケさんのために、毎日、手作りのお弁当を持たせてくれたそうです)

ヨネスケは二つ目に昇進するまでの4年間は実家に帰らないと心に決めていた

そんな中、ヨネスケさんは、落語家として修業するにあたり、「前座」から「二つ目」に昇進するまでの4年間は実家に帰らないと決め、電話もせず、ハガキを出す程度で過ごしていたといいます。

(落語界では、「見習い」⇒「前座」⇒「二つ目」⇒「真打」という階級が設けられています)

ただ、お母さんは、桂米丸師匠のもとへ、4年間、毎月5,000円(当時の大学生一人を養える額)送り続けてくれていたといいます。

そして、おかみさんも、そのお金を使わず、全て貯金してくれていたそうで、ヨネスケさんが「二つ目」に昇進した際には、おかみさんから、通帳と印鑑を受け取ったのだそうです。

(ちなみに、ヨネスケさんは、そのお金を、仲間との飲み代として3日で使い切ってしまったそうですが、今では、それも含めて若き日の良い思い出となっているそうです)

ヨネスケは19歳の時に浅草演芸ホールで落語家デビュー

さておき、ヨネスケさんは、同年(1967年)、19歳の時、浅草演芸ホールで落語家デビューを果たすと、1970年、22歳の時には、「人形町末廣」で「前座」、1971年4月、23歳の時には、「二つ目」に昇進しているのですが、

「前座」時代は、着流しで高座に上っていたのが、「二つ目」になると、羽織袴を着ることができたほか、

  • アパートを借りることができる
  • 寄席にずっといなくても、出番が終われば帰ることができる
  • 自由に飲みに行ける

と、ずいぶん自由になったそうで、ヨネスケさんはとても嬉しかったそうです。

ちなみに、ヨネスケさんは、

落語家になりたかったので、道さえつけばその先は自分次第だと思ってた。米丸師匠から最初に、『芸は教えないよ。売れることを教えるから」と言われた。うちの師匠の考えは、芸は盗むものということ。

と、語っています。

(落語の世界では、「前座」4年、「二つ目」10年、合わせて14年で「真打」と言われているのですが、ヨネスケさんも、1981年10月、33歳の時に、「真打」になっており、順調に昇進しています)

Sponsored Link

ヨネスケは22歳の時に「笑点」の座布団運びでテレビデビュー

また、ヨネスケさんは、1970年6月、22歳の時には、兄弟子・桂歌丸師匠の推薦で、「笑点」(1970年6月21日放送分)の座布団運びでテレビデビューも果たすと、1971年7月11日放送分まで「笑点」に「前座」として出演しています。

当時は、立川談志さんが司会で、回答者には先代(五代目)の三遊亭円楽さん、兄弟子の桂歌丸師匠、毒蝮三太夫さん(当時は石井伊吉)などがいたそうですが、

桂歌丸師匠が小道具(等身大の人形など)を作った際、一人では持てないため、ヨネスケさんたちが一緒に運ぶのを手伝ったそうです。

ただ、ヨネスケさんは、「前座」や「若手大喜利」に出演したことはあっても、それは、あくまで座布団運びとしてで、本編での大喜利で座布団に座って回答者として出演したことは一度もなかったそうです。

そのため、回答者として「笑点」に出演することは、ヨネスケさんにとって、「生涯の夢」となっているといいます。

「【画像】ヨネスケ(桂米助)の若い頃から現在までの経歴は?野球落語とは?」に続く

お読みいただきありがとうございました

Sponsored Link