1967年、19歳の時、落語家としてデビューして以来、創作落語「野球落語」など、伝統にとらわれない新しい落語を披露するほか、タレントとしても、「突撃!隣の晩ごはん」でお茶の間の人気を博している、ヨネスケさん。

そんなヨネスケさんは、中学生の頃、家に初めてテレビが来たことで、テレビに夢中になると、やがて、落語家に憧れるようになり、中学卒業後は、落語家の道を志すも、親に反対されたことから、高校に進学したそうですが、やはり、落語家への道が諦めきれなかったといいます。

今回は、ヨネスケさんの生い立ち(幼少期~高校時代)をご紹介します。

ヨネスケ

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ヨネスケのプロフィール

ヨネスケさんは、1948年4月15日生まれ、
千葉県市原郡姉崎町(現・市原市) の出身、

血液型はО型、

学歴は、
千葉県立市原高等学校卒業

だそうです。

ヨネスケの本名は?

ヨネスケさんの本名は、「小野五六」(おの ごろう)というそうですが、お父さんが56歳の時に誕生した子供だったことから、「五六」と名付けられたそうで、

ヨネスケさんは、

いい加減な名前をつけた

兄貴なんか、正直って書いてマサナオ、姉さんなんかウメコっていい名前で、どうして俺は漢数字の五つ、六つなんだって

と、嘆くも、

(人から)忘れられない名前

とも、語っています。

「ヨネスケ」をカタカナ表記にした理由とは?

そんなヨネスケさんは、タレントとしてメディアに出演する際は、カタカナの表記で「ヨネスケ」としているのですが、落語家としての高座名は「桂米助(かつら よねすけ)」というそうです。

また、カタカナ表記の「ヨネスケ」としたのは、漢字だと「米助(ベイスケ)」と読まれ、桂米朝一門の弟子だと間違われることが多かったからで、誤読を避けるためだったといいます。

ただ、前代未聞のカタカナ名義は、当時、落語関係者とひと悶着(もんちゃく)あったそうで、

そんな中、兄弟子の桂歌丸さんが、

芸がこなせるのであれば、カタカナで名乗ってもいいのではないか

と、柔軟な姿勢で後押ししてくれたことで、「ヨネスケ」で通せたのだそうです。

(ちなみに、釣り人のヨネスケさんは別人です)

ヨネスケは父親が3人いる複雑な家庭環境で育っていた

さておき、ヨネスケさんは、4人きょうだい(兄1人姉2人)の末っ子として誕生しているのですが、ヨネスケさんのお父さんは、別の家庭を持っていて、お母さんは、いわゆる妾(めかけ)という立場だったそうで、

事情は不明ですが、お父さんが生活費を家に入れなかったことから、お母さんが働いて生計を立て、苦労しながら、ヨネスケさんら4人の子供たちを育ててくれたといいます。

ただ、それでも、お母さんは、一切、文句を言わず、お父さんが家にいる時はとてもうれしそうだったそうで、ヨネスケさんは、子供の目から見ても、お母さんがお父さんをとても愛していることが分かったそうです。

また、お父さんは、普段は家にいなかったそうですが、たまに家にいる時は、必ず、居間でタバコをゆっくりと吸いながら新聞を読んでいたそうで、とても寡黙な人だったそうです。

(ヨネスケさんは、今だに、お父さんの本名も、お父さんの家庭がどこにあったかも知らないそうです)

また、このお父さんは、ヨネスケさんとヨネスケさんのお兄さんのお父さんだったそうですが、ヨネスケさんのお姉さん2人はそれぞれ違うお父さんがいたそうで、そのため、ヨネスケさんには、父親となる男性が3人いたのだそうです。

ヨネスケは中学生の時に初めて家にテレビが来ると毎日夢中になって見ていた

そんなヨネスケさんは、中学生の時、初めて家にテレビが来たそうですが、以降、毎日、テレビにかじりつき、勉強しなかったそうで、

結果、学力は落ちてしまったそうですが、芸能やエンターテインメントの世界に強く惹かれるようになったそうです。

(この頃、テレビは、三種の神器の一つとされる貴重な物で、医者などお金持ちの家以外、ほとんどの家庭にテレビはなく、力道山の試合などのテレビ放送が始まると、みな、テレビがある家に集まって見たそうです。また、家の人は、お茶やお菓子も出してくれたそうです)

ヨネスケは中学生の時に落語家に憧れるも親に反対されていた

そして、ヨネスケさんは、中学卒業後は、落語家になりたいと思うようになったそうですが、

そのことを親に伝えると、

(落語家は)だめだよ

と、反対され、

高校を出て、サラリーマンなど堅実な職業に就職するよう言われたそうで、

ヨネスケさんは、親の意向を汲み、中学卒業後は高校に進学したのだそうです。

(当時、落語家は、”ヤクザな商売”と見なされていたそうです)

ヨネスケは高校3年生の時、落語家の夢を捨てきれず進路が決まっていなかった

ただ、高校3年生になると、周囲の同級生たちが、就職や進学を次々と決めていく中、ヨネスケさんだけは、落語家への夢を捨てきれず、進路が決まっていなかったそうで、

将来を心配したお母さんが、担任の小野先生に相談したそうですが、

ヨネスケさんは、その時も、

落語家になりたい

と、小野先生に伝えると、

小野先生は、

よし、わかった

と、応じてくれたのだそうです。

ヨネスケは高校3年生の時、担任の先生にユーモア作家の玉川一郎を紹介してもらっていた

そして、小野先生は、ユーモア作家として活動していた玉川一郎さんを紹介してくれたそうで、

ヨネスケさんは、もともと、立川談志さんに憧れ、立川談志さんの弟子になりたいと考えていたことから、玉川一郎さんに、その旨を相談すると、

玉川一郎さんからは、

立川談志さんのところは弟子が多くて苦労する

これからは新作(落語)の時代だ

と、アドバイスをを受けたといいます。

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ヨネスケは高校3年生の時、玉川一郎に桂米丸を紹介してもらっていた

そこで、ヨネスケさんは、頭の中に、林家三平さん、三遊亭円歌さん、桂米丸さんの3人の名前が候補に浮かんだそうですが、

三平師匠のところでは落語を教えてもらえなさそう

円歌師匠は厳しそう

と考え、「一番優しそう」だと感じた桂米丸さんに弟子入りしたいと思ったそうで、

そのことを、玉川一郎さんに伝えると、

玉川一郎さんは、

あ、米丸さんなら俺知ってるから紹介してやるよ

と、言ってくれたそうで、

ヨネスケさんは、桂米丸さんを紹介してもらえることになったのだそうです。

「ヨネスケ(桂米助)の若い頃(桂米丸の内弟子時代)は?笑点の座布団運びも!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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