1969年、女子プロボウラー1期生としてデビューすると、1970年にテレビ放映中、パーフェクトゲームを達成するなどの活躍で、空前のボーリングブームを日本中に巻き起こした、中山律子(なかやま りつこ)さん。
そんな中山律子さんですが、中学生の時にバレーボールを始め、中学卒業後は、バレーボールの名門・鹿児島市立鹿児島女子高等学校に進学し、バレーボールの選手として活躍したそうで、
高校卒業後は、バレーボールの実績を買われて愛知県の旭精機工業に入社したそうですが、それから2年後、20歳の時には、バレーボールチームが解散し、やむなく、故郷・鹿児島に帰郷したといいます。
今回は、中山律子さんの、生い立ち(幼少期から鹿児島に帰郷するまで)をご紹介します。
中山律子のプロフィール
中山律子さんは、1942年10月12日生まれ、
群馬県吾妻郡草津町生まれ、鹿児島県育ち、
身長162センチ、
血液型はA型、
学歴は、
鹿児島市立鹿児島女子高等学校卒業、
ちなみに、「中山律子」は本名で、愛称は「和製ジャンヌ・ダルク」です。
また、弟さんは、プロゴルファーで、PGAシニアツアー賞金王になったこともある中山徹さんです。
中山律子が幼い頃はかけっこが大好きだった
中山律子さんは、公務員のお父さんのもと、7人きょうだいの5番目として誕生すると、幼い頃からかけっこが大好きだったそうで、
特に、「よーいドン」で飛び出す瞬間が好きで、リレーでは、後ろから行って前の人に追いつき、スッと追い抜いて一番になる瞬間が好きだったそうです。
中山律子は中学時代にバレーボールを始めていた
そんな中山律子さんは、中学時代にバレーボールを始めると、当時はローテーションのない9人制バレーで、中山律子さんのポジションは、スパイクもレシーブも両方こなす中衛のレフトだったそうです。
中山律子は高校時代にはバレーボールの選手として活躍していた
そして、中学卒業後は、バレーボールの名門・鹿児島女子高等学校に進学すると、バレーボールの選手として、東京・熊本と2年連続で国民体育大会に出場するなど活躍したそうです。
ちなみに、中学の時の練習はそれほど大変ではなかったものの、高校では、顧問の河野先生の指導が厳しく、夜遅くまで練習に明け暮れる毎日だったそうで、
(校庭を何周も走る長距離走、ダッシュ、うさぎ跳びなどのトレーニングをみっちりとやらされたそうです)
そのうえ、練習中はミスをしたらボールが飛んでくるなどのスパルタだったそうですが、
中山律子さんは、
でも、あのときに体と心をとことん鍛え抜いたことが、アスリートとしての原点をつくってくれたと思って感謝しています。
と、語っています。
中山律子は高校卒業後は実業団バレーチーム・旭精機工業に入社していた
そんな中山律子さんは、高校卒業後の1961年には、バレーボールの実績を買われて、愛知県の旭精機工業に入社したそうですが、
当時は、東京オリンピックが目前で、日紡貝塚を中心とした女子バレーに期待が集まっていたことや、中山律子さん自身も、もう少しバレーに打ち込んでみたいと思い、実業団の道に進むことにしたのだそうです。
中山律子は20歳の時に実業団チームが解散したことから故郷・鹿児島に戻り会社員として働くことになっていた
そして、中山律子さんは、旭精機工業でも活躍したそうですが・・・
入社2年目の1963年、20歳の時、旭精機工業のバレーボール部が解散となってしまったそうで、
(ただ、バレーボールはやり尽くした感があったため、サバサバとした気持ちだったそうです)
やむなく、故郷・鹿児島に帰郷すると、その後、公務員だったお父さんの仕事の関連先だった結核予防会というところを紹介してもらい、会社員として働くことになったのだそうです。
「【画像】中山律子の若い頃はボウリングでパーフェクト達成!現在までの経歴を時系列まとめ!」に続く
1969年6月、26歳の時、女子プロテストを受けて合格すると、翌年の1970年には、女子プロ史上初のパーフェクトゲームを達成して、空前のボウリングブームを巻き起こし、その爽やかな美貌と相まって、たちまちブレイクした、中山 …