1969年6月、女子プロテストを受けて合格し、プロボウラーとなると、以降、常に策略を巡らせ、努力と執念で、ナンバーワンの実力を誇った、須田開代子(すだ かよこ)さん。
今回は、そんな須田開代子さんの若い頃(プロ入り以降)からの活躍や経歴を時系列でまとめてみました。
「須田開代子の生い立ちは?アマチュア時代から米国大会で準優勝していた!」からの続き
須田開代子は31歳の時に「第1回女子プロテスト」をトップの成績で合格
須田開代子さんは、1969年6月、30歳の時、ボウリングの「第1回女子プロテスト」を受けると、トップの成績で合格してプロ入りし、ライセンスNo.1を獲得しています。
(プロテストの順位がそのまま日本プロボウリング協会(JPBA)のライセンスナンバーとなったため、トップの成績だった須田開代子さんは、ライセンスNo.1となっています)
ちなみに、プロテストは4日間の計36ゲームでスコアのアベレージ180以上が合格ラインというルールで、3日目を終えた段階では、中山律子さんがトップに立っていたそうですが、4日目、須田開代子さんが逆転しての優勝だったそうで、
須田開代子さんは、4日目の休憩時間、偶然、トイレで一緒になった中山律子さんに、
中山さん、まだ終わってないからね
と、言ったと言われています。
1969年、「パールカップ」優勝時の須田開代子さん(中央)
須田開代子の30代前半は実力ナンバーワンを誇り、中山律子とともにボウリング人気を牽引していた
そして、女子プロ誕生後、ボウリングは爆発的な人気となっているのですが、実力ナンバーワンと言われた須田開代子さんと、それを凌ぐ勢いで追い上げる中山律子さんのライバル関係が、このボウリングブームを牽引したそうで、
“天下のライバル”と呼ばれた2人が競い合う姿が、より一層、ボウリング人気を高め、試合がテレビ放送されると、長嶋茂雄さんと王貞治さんが全盛期の巨人戦の視聴率を超えることもあったといいます。
中山律子さん(左)と須田開代子さん(右)。
須田開代子は32歳の時に公式戦で6連勝し女王に君臨するもパーフェクト達成の中山律子に霞んでいた
そして、1970年8月には、中山律子さんが、府中スターレーンで開催された「女子プロ8月月例会」の海野房枝さんとの優勝決定戦で、女子プロ史上初のパーフェクトゲーム(12回連続ストライクで300点満点を出すこと)を達成して、世間の注目を浴びているのですが、
須田開代子さんはというと、悔しさのあまり、猛練習を重ねたそうで、同年には、公式戦で6連勝を達成したそうですが・・・
須田開代子さんの、”女王”としての注目度はさほど高くなかったのだそうです。
須田開代子は32歳の時に一旦ボウリングを離れ渡米していた
そんな須田開代子さんは、中山律子さんが人気絶頂だった、1971年1月、32歳の時には、一旦、ボウリングを忘れようと、競技を離れ、お姉さんが住むアメリカへと渡ったそうですが・・・
お姉さんの自宅で休養しつつも、ボウリングへの思いが捨てきれず、現地のプロボウラーに指導を仰ぎ、練習を続けていたといいます。
また、須田開代子さんは、このアメリカ滞在中に、整形手術を受けたそうで、パッチリした二重まぶたに、スッと高い鼻と、顔立ちが変わったといいます。
1972年頃の須田開代子さん。
須田開代子は36歳の時に結婚し40歳の時には子供も出産していた
そして、須田開代子さんは、1974年、36歳の時には、五月みどりさんの弟で、男子プロボウリング選手だった西城正明さんと結婚すると、1978年、40歳の時には男の子を出産しています。
(1979年には別居状態となったといいます)
須田開代子は38歳の時に「ジャパンレディースボウリングクラブ」を設立し初代代表に就任
そんな中、1973年頃には、あれほどまでに人気のあったボウリングも、一気に下火になり、
(人々に飽きられたことや、オイルショックの影響でレジャーに対しての評価が変わったことが原因と言われています)
須田開代子さんは、個人的にはそれほど落ち込んではいなかったそうですが、大好きなボウリングが消えていくことが寂しかったことや、お世話になったボウリング場に恩返しをしたいという気持ちから、
1976年11月、38歳の時に、藤原清子プロと女性だけのボウリング団体「ジャパンレディースボウリングクラブ」を設立し、初代代表に就任しています。
須田開代子は46歳の時に胃ガンが判明していた
須田開代子さんは、1985年2月、たまたま受けた人間ドックで胃ガンが判明したそうで、これまで病気一つしたことがなく、突然のガン宣告にショックを受け、遺書をしたためたそうですが、このままではダメだと思い直し、必ず生還すると決心したそうです。
そして、その後、胃の4分の3を切除する手術を受けて、順調に回復し、1ヶ月で退院すると、すぐにボウリングの練習を再開し、約5ヶ月後の8月に開催された「第6回全日本ミックスダブルストーナメント」で、夫の西城正明さんと夫婦ペアで出場すると、準優勝を収めています。
須田開代子さん(中央)と夫の西城正明さん(右)。
須田開代子は48歳の時に夫・西城正明と離婚
ただ、須田開代子さんは、1985年、48歳の時には、夫の西城正明さんと離婚しています。
ちなみに、離婚の理由は、ボウリングにすべてを賭ける須田開代子さんと、ボウリングを半ばあきらめ、他の事業を始めようとする西城正明さんとの間ですれ違いが生じたことによるものだそうで、
須田開代子さんは、西城正明さんが事業を始めることに猛反対していたといいます。
(西城正明さんは、ボウリングを辞め、パブを開いていたという話も)
須田開代子の死因は?
そんな中、須田開代子さんは、1995年、57歳の時、喉に違和感を感じ、診察を受けると、食道ガンが判明したそうで、すでに病状は進んでおり、その後、約2ヶ月間入院し、手術と抗ガン剤治療を受けたそうです。
(医師は告知しないつもりでいたそうですが、須田開代子さんの強い希望で事実が告げられたのだそうです)
その後、須田開代子さんは、新しい治療法を求め、再び、お姉さんの住むアメリカへと渡ったそうですが・・・
同年11月20日、療養先のアメリカバージニア州内の病院で、心不全により、57歳で他界されたのでした。
1969年、日本で初めて女子プロボウラーライセンスを取得すると、その後、通算タイトル43勝を挙げる活躍をするほか、1976年には、女性だけのボウリング団体「ジャパンレディースボウリングクラブ(JLBC)」を結成し、代表と …