1969年、日本で初めて女子プロボウラーライセンスを取得すると、その後、通算タイトル43勝を挙げる活躍をするほか、1976年には、女性だけのボウリング団体「ジャパンレディースボウリングクラブ(JLBC)」を結成し、代表として、ボウリングの発展に尽力した、須田開代子(すだ かよこ)さん。

そんな須田開代子さんは、OLをしていた外資系貿易会社で初めてボウリングというスポーツを知ったそうで、簡単そうで、思うように行かないところに魅力を感じ、たちまち、ボウリングにのめり込んでいったといいます。

今回は、須田開代子さんの若い頃(幼少期~アマチュア時代)を生い立ちからご紹介します。

須田開代子

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須田開代子のプロフィール

須田開代子さんは、1938年8月2日生まれ、
東京都中野区の出身、

身長166センチ、

学歴は、
横浜市立横浜商業高等学校卒業、

ちなみに、須田開代子は本名です。

須田開代子が幼い頃は貧しかった

須田開代子さんは、物心ついた時には、お父さんが亡くなっており、お母さんが賄(まかな)い婦として夜遅くまで働き、生活を支えていたそうですが、それでも、生活は苦しかったそうで、

須田開代子さんは幼い頃から、一人で晩酌するお母さんに、

並みの人間じゃダメなんだよ開代子、並みの人間じゃ私みたいに苦労するよ

と、言い聞かせられていたそうです。

須田開代子は高校卒業後に就職した外資系貿易会社でボウリングのボールを初めて目にしていた

そんな須田開代子さんは、高校卒業後の1957年、18歳の時、外資系貿易会社に就職したそうですが、1965年、27歳の時、勤務先がボウリングのボールを輸入し始めたことから、初めてダイナマイトのようなボウリングのボールを目にしたそうで、

ちょうどその頃、日本でも、ボウリングセンターができ始め、一般の人にもボールが売れるようになっていたそうで、その販売のため、社長命令で、須田開代子さんもボウリングをやらされるようになったのだそうです。

須田開代子はボウリングを始めて1年で神奈川県のアマチュア大会で優勝していた

こうして、初めてボウリングをした須田開代子さんの初スコアは89だったそうですが、見た目にはとても簡単そうに見えるのに、思うようにいかないボウリングというスポーツが、須田開代子さんの生来の負けん気を奮い立たせたそうで、

その後、須田開代子さんは、会社員として働きながら、ボウリングの練習に励み、約1年後、28歳の時には、神奈川県のアマチュア大会で優勝したのだそうです。

須田開代子は28歳の時に米国大会に日本代表として出場するもビリから2番目だった

そして、この時、日本から1名、米国の大会に出場する話が来たそうで、須田開代子さんが日本代表選手に選ばれたそうですが・・・

わずか、1年ほどのキャリアだった須田開代子さんは、米国の大会ではビリから2番目の成績だったそうです。

須田開代子は29歳の時にも米国大会に日本代表として出場していた

また、須田開代子さんは、翌年1967年(29歳)も、米国の大会に出場する代表選手に選ばれたそうですが・・・

前年よりは、少し上位になったものの、まだまだ、壁は厚いと感じたそうです。

須田開代子は30歳の時にも中山律子との接戦を制し米国大会に日本代表として出場していた

そして、3年目の1968年、30歳の時にも、須田開代子さんは、中山律子さんと接戦の末、大逆転で、米国の大会に出場する代表選手に選ばれているのですが、

実は、須田開代子さんは、少し前、中山律子さんという人が九州から上京し、東京タワーボウリングセンターで特訓をしているというニュースが飛び込んできた時、

きっと彼女はこれからのライバルになるな・・・ 

と、予感していたそうで、

案の定、日本代表を決める試合では、中山律子さんとの一騎打ちとなったのだそうです。

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須田開代子は30歳の時に米国大会で準優勝していた

こうして、良きライバルを得て接戦の末、日本代表になった須田開代子さんは、米国の大会ではそこそこの成績を残さなければ井の中の蛙になってしまうと考え、この年(1968年)、国内のトーナメントを捨てて米国で勝てるボウリングの練習に徹すると、

マイアミ・フロリダの大会では、予選を1位で通過し、その後はあれよあれよと勝ち進んで、最終的には、勝てば300万円、負けても100万円の賞金を獲得できる、テレビマッチ(決勝戦)にまで勝ち進んだそうで、

(当時、須田開代子さんの月給は2万4千円だったそうです)

結果は、サウスポーの米国選手に及ばず、準優勝に終わってしまったそうですが、

須田開代子さんは、賞金100万円を手にした時、

こんな大金を手にしてアマチュアとは言えない。帰ったら女子プロを作ろう

と、決意したそうで、

翌年1969年には女子プロが誕生したのでした。

ちなみに、須田開代子さんは、

(男子プロよりも)2年だけ遅れて女子プロができました。私が米国での快挙を遂げなければ女子プロの誕生はもっと遅れていただろうと思います

と、語っています。

「【画像】須田開代子の若い頃は?プロボウラー以降の経歴を時系列まとめ!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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