1969年6月、26歳の時、女子プロテストを受けて合格すると、翌年の1970年には、女子プロ史上初のパーフェクトゲームを達成して、空前のボウリングブームを巻き起こし、その爽やかな美貌と相まって、たちまちブレイクした、中山律子(なかやま りつこ)さん。
今回は、そんな中山律子さんの、若い頃から現在までの活躍や経歴をデビューから時系列でまとめてみました。
「中山律子の生い立ちは?中学高校時代はバレーボール選手!高卒で実業団に入部していた!」からの続き
中山律子は22歳の時に初めてやったボウリングで85点出し徐々にボウリングに熱中していった
中山律子さんは、22歳ぐらいの頃、友達に誘われて初めてボウリングに行くと、85点だったそうですが、楽しく、また、やりたいと思ったそうです。
とはいえ、当時は、1ゲーム180~200円で、中山律子さんにとって、決して安いとは言えない金額だったそうですが、スペアを取るのが楽しく、徐々にボウリングに熱中していったそうで、
中山律子さんは、会社を辞めて、お母さんのおでん屋を手伝いながら、週に1度、レジから1000円札を失敬してボウリング場通いをするようになったのだそうです。
(この頃、お父さんが亡くなり、お母さんがおでん屋を始めたそうです)
中山律子は23歳の時にアマチュアの九州大会で準優勝していた
そんな中山律子さんは、バレーボールで下半身や手首を鍛えていたおかげか、投げるたびにスコアが伸びていったそうで、
1966年4月、23歳の時、アマチュアの大会で九州大会に出場すると、準優勝したのだそうです。
中山律子は25歳の時に「第1回 全日本オープン選手権」で準優勝しスカウトされていた
そして、1967年11月、25歳の時には、大阪で開催された「第1回 全日本オープン選手権」女子の部でも準優勝に輝いたそうで、この時、東京タワーボウリングセンターにスカウトされ、上京を決めたそうで、
中山律子さんは、
そのころ、一足早く男子プロボウラーが誕生していて、女子プロももうすぐできるという噂はありました。でも私には女子プロより、ボウリング場で働いて稼げることがまず魅力でした。
と、語っています。
中山律子は25歳の時にプロボウラーを目指して上京していた
こうして、中山律子さんは、1968年、25歳の時に上京すると、寮に入り、朝10頃から夕方5時頃まで練習漬けの毎日だったそうですが、特に、指導者がいるわけでもなく、投げてスコアをつけて・・・という繰り返しの練習だったそうです。
また、中山律子さんは、朝と夜に、東京タワーの大展望台まで、600段もある階段を昇り降りしてトレーニングしたのだそうです。
中山律子は26歳の時に女子プロテストに合格
そんな中、1969年6月、26歳の時には、「第1回女子プロテスト」を受けると、見事、2番で合格し、プロ入りを果たしたそうですが、
中山律子さんは、プロテストの前に、お母さんに、
落ちたら帰るね
と、連絡していたそうで、1度限りの挑戦と決めて臨んでいたといいます。
(プロテストの合格ラインは1日9ゲームを4日間投げ、アベレージ180以上というものだったそうで、中山律子さんは、3日目までトップだったそうですが、須田開代子さんに最終日に逆転されてしまい、2位での合格となったのだそうです)
(左から)須田開代子さん、中山律子さん、並木惠美子さん。(当時「3強」と呼ばれました)
中山律子は27歳の時に「第1回全日本プロボウリング選手権(女子)」で優勝し初代チャンピオンに輝いていた
そんな中山律子さんは、1969年9月に開催された「女子プロ誕生記念大会」で優勝すると、1970年3月22日開催された「第1回全日本プロボウリング選手権(女子)」でも優勝し、初代チャンピオンに輝いています。
中山律子さん。
中山律子は27歳の時に女子プロ史上初のパーフェクトゲームを達成し空前のボウリングブームを巻き起こしていた
また、中山律子さんは、1970年8月(27歳)には、府中スターレーンで開催された「女子プロ8月月例会」での海野房枝さんとの優勝決定戦で、女子プロ史上初のパーフェクトゲーム(12回連続ストライクで300点満点を出すこと)を達成しているのですが、
(このパーフェクト達成の様子はテレビ中継され、日本中に大きなインパクトを与えたそうです)
その爽やかな容姿で、空前のボウリングブームを巻き起こしたのでした。
中山律子さん。
中山律子は28歳の時には花王シャンプーのCMに出演し歌とともに大ブレイクしていた
また、翌年の1971年、28歳の時には、カラフルなウェアにミニスカート姿で花王のフェザーシャンプーのCMに出演すると、
♪律子さん 律子さん さわやか律子さん♪
の歌とともに、たちまち大ブレイク。
ちなみに、中山律子さんは、
会社にはサイン色紙が400~500枚山積み状態。大会会場に人が集まりすぎで中止になったこともありました
と、当時の人気の凄まじさを語っています。
また、中山律子さんは、
あのCMで“爽やか”というイメージが定着して、これからもずっと爽やかであり続けたいという私の原動力になりました
とも、語っています。
中山律子さん。
中山律子が30代の時はボウリングブームが去り、結婚&出産してボウリングを休んでいた
しかし、やがては、熱狂的だったボウリングブームも冷め始め、中山律子さんは、ボウリング場に契約をしてもらっていたため、全国各地に指導に行くようになったそうです。
また、1974年、32歳の時に結婚し、1978年、36歳の時に出産すると、出産後は休業していたそうです。
中山律子が40代の時は肩と膝の故障などケガに悩まされ2年間完全休業していた
そして、40代の時にはケガに悩まされたそうで、まず、左膝を傷めてしまい、手術をしたそうですが、無理をしていたせいで、今度は右肩痛にもなってしまい、
さらには、右膝も痛くなり、とうとう、2年間、完全休業を余儀なくされてしまったのだそうです。
(それまで、中山律子さんは、パワーとスピードを持ち味としていたのですが、ケガがきっかけで、回転とコントロールを重視するスタイルへと変更したそうです)
中山律子は50代で復帰するも満足に投げることはできなかった
それでも、中山律子さんは、1992年、50歳の時には復帰するのですが、故障してからは満足に投げられたことはなかったといいます。
そんな中、追い打ちをかけるように、お母さんを亡くしたそうで、体調を崩し、思うような活躍はできなかったそうですが、
中山律子さんは、
それでも私の中にボウリングはいつもあって、永久シードプロの私は生涯現役です。
と、語っています。
中山律子の60代~現在(80代)は日本プロボウリング協会(JPBA)の名誉会長としてスポーツの普及活動に尽力
そんな中山律子さんは、2004年、62歳の時には、女性として初めて日本プロボウリング協会(JPBA)の会長に就任すると、4期8年務め、2012年3月には、名誉会長に就任しています。
また、2017年には、JPBA日本プロボウリング協会により、ボウリング界の発展に貢献したとして、殿堂表彰されています。
ちなみに、中山律子さんは、ボウリングの普及活動について、
ジュニア層の発掘・育成ももちろん大切ですが、自分が72歳になってつくづく、「ボウリングをしてきてよかった」と思うのです。
ですから、シニアボウラーの方をもっと増やしていきたいですね。軽いボールがありますし、投げて、休んでと自分のペースでプレーできるところが、ボウリングの長所です。
中国語では、ボウリングを「保齢球」と書きます。その字のとおり、年齢(若さ)を保つスポーツとして、浸透させていきたいものです。
と、語っています。
「中山律子と須田開代子のライバル関係の真相は?プロテスト受験時から始まっていた!」に続く
1970年代に空前のボウリングブームを巻き起こし、対照的なキャラクターで”天下のライバル”と呼ばれた、中山律子(なかやま りつこ)さんと須田開代子(すだ かよこ)さん。 そんな2人のライバル関係は …