1975年にリリースしたソロ3枚目のシングル「なごり雪」が大ヒットを記録すると、その後も、「雨の物語」「海岸通」とヒットを飛ばした、イルカさんですが、
実は、イルカさんを育てて、ソロデビューさせるなど、大ヒット歌手へのレールを敷いてくれたのは、夫の神部和夫さんだったといいます。
今回は、そんなイルカさんと夫・神部和夫さんの馴れ初め、結婚までの経緯、結婚後の関係、神部和夫さんのパーキンソン病の闘病についてご紹介します。
「イルカは当初「なごり雪」を歌うことを拒否していた!その理由とは?」からの続き
イルカの夫・神部和夫との馴れ初めは?
イルカさんは、1972年、21歳の時、「シュリークス」のメンバーで、3歳年上の神部和夫さんと結婚しているのですが、
神部和夫さんとは、早稲田大学フォークソングクラブの部長だった神部和夫さんが、イルカさんが18歳の時、所属していた女子美術大学のフォークソング同好会に、コーチとして指導するためにやって来たことで知り合ったそうで、
(当時、イルカさんは、ジョン・レノンとの結婚を夢見る浮世離れしたロック少女だったそうです)
誕生日には、電話がかかってきて、お好み焼きやアイスクリームなどを次々とおごってもらったり、プレゼントにセーターやぬいぐるみを買ってもらったりしたそうですが、
イルカさんは、それは、あくまでコーチとしてで、みんなにも同じようなことをしていると思い、「親切な人だな」と思っていたのだそうです。
(神部和夫さんは、フォークソンググループ「シュリークス」のリーダーとしてすでにレコードデビューしており、学生コンサートを企画・運営したり、テレビ局でアルバイトもしていたそうで、ものすごく大人に見えたそうです。また、そんな神部和夫さんは、風貌も声も優しく、物腰がおっとりしていたことから、イルカさんたち部員は神部和夫さんを「お母さん」と呼んでいたそうです)
イルカは神部和夫に出会って1年後にプロポーズされていた
すると、出会って1年ほど経った頃、神部和夫さんに、
卒業したら、一緒に歌わないか
と、言われ、
イルカさんは、
うん
と、返事をして、
女子美術大学卒業と同時に、「シュリークス」に加入したそうですが、
翌年の1972年には結婚したそうで、イルカさんは、後に、「卒業したら、一緒に歌わないか」という言葉がプロポーズだったのだと気がついたそうです。
(イルカさんは、この頃、自分が一人でステージに立つことになるとは夢にも思っておらず、「音楽は趣味でやるのが一番」と考えていたそうですが、「シュリークス」に加入したのは、神部和夫さんと一緒に歌えたら楽しいだろうなと思ったからだそうです)
イルカは夫・神部和夫にすべてお膳立てされてソロデビューしていた
ちなみに、神部和夫さんは、もともと、プロデューサー志向で、初めてイルカさんに誕生日プレゼントをした日、すでに、イルカさんをアーティストの卵として見込み、
いつか自分がプロデューサーとしてイルカの才能を花開かせたい
と、強い意志を持って結婚していたといいます。
(「シュリークス」にイルカさんを迎えたのも、いきなりソロで歌わせるのではなく、3年ほど訓練期間を与えるためだったそうで、イルカさんは、すべてお膳立てされたうえでソロデビューしていたのだそうです)
そんな中、イルカさんは、初めて、神部和夫さんからソロデビューの話を切り出された時には、このままずっと神部和夫さんと一緒に歌を歌っていたかったのと、神部和夫さんほどの才能を持った人に歌を歌うことをやめてほしくなかったことから、泣きながら拒否したそうですが、
神部和夫さんは一度決めたことを決して曲げない人だったため、最終的には、イルカさんが折れて、ソロデビューすることになったのだそうです。
イルカと夫・神部和夫は結婚後は”子供と保護者”のような関係だった
そんなイルカさんは、結婚して1年ほどは、買い物に行く時には、神部和夫さんからお金をもらい、帰ると、お釣りとともにレシートを出し、「はい、これ買いました」と言うなど、子供のような生活をしていたそうで、
その後も、イルカさんは、ずっと、ギャラの額も知らなければ、お財布を持ったこともなく、夫婦というよりは、まるで、保護者と子供のような関係だったといいます。
イルカの夫・神部和夫はギャンブラーだったが不満に思ったことはなかった
一方、神部和夫さんはというと、かなりのギャンブラーで、周囲の人からも心配されるほどだったそうですが、
イルカさんは、神部和夫さんが何にいくら使っているのか全く知らなかったものの、生活に不自由がなく、音楽に専念できるのは、神部和夫さんあってこそだと思っていたため、怒ったことも疑問に思ったこともなかったそうで、
私には働いているっていう意識はなかったんです。私は好きな歌を作って歌っている。彼はその間にプロモーションをする。むしろ彼が働いていて、そのお金を使うのは当たり前だと思っていました
と、語っています
(神部和夫さんは、結婚して3日目で、徹夜麻雀で家に帰って来なかったそうです)
イルカの夫・神部和夫は長年パーキンソン病を患っていた
そんな中、1986年頃、神部和夫さんに、左手薬指の痙攣(けいれん)が止まらなくなるという症状が現れたため、すぐに病院に行き、何度も検査を受けたそうですが、病名が分からず、症状が出てから3年ほど経った頃、パーキンソン病であることが判明したそうです。
そして、医者には、「すぐに命にかかわる病気ではない」と言われていたそうですが、神部和夫さんは日に日に体が動かなくなっていき、1991年、ラジオ番組「イルカのミュージックハーモニー」の初めての打ち合わせが、イルカさんが神部和夫さんと一緒に仕事に出かけた最後となってしまったのだそうです。
その後、イルカさんは、家族と協力し合いながら自宅で神部和夫さんを介護をしていたそうですが、1999年には、神部和夫さんは、北海道・旭川のリハビリテーション病院で療養生活を送ることになり、イルカさんは旭川に部屋を借りて、旭川と東京を往復する生活となったのだそうです。
(あちこちの病院を探した結果、人から旭川のリハビリテーション病院を勧められたのだそうです)
実は、イルカさんは、仕事を辞めて、介護に専念することも考えたそうですが、その話をすると、普段、声を荒げることのない神部和夫さんが、
そんなことを僕は望んでいない。そんな時間があったら、一曲でもいい曲を作れ
と、ものすごい剣幕で怒ったそうで、
イルカさんは、
もちろん、心の底には「いつもそばにいてほしい」という思いもあったはずです。でもそれ以上に夫には、自分がイルカを見つけて育て、レールを敷いたという誇りがありました。
私がそのレールをつなぎ、イルカが水平線の向こうまで泳いでいくことが彼の生きている証になる。だから、夫のために私にできることはただひとつ、歌を作り、コンサート活動も続けて、イルカの命を絶やさないこと。そんな風に思っていました。
と、語っています。
イルカの夫・神部和夫は59歳で他界していた
そして、神部和夫さんは、少しずつできることを失っていき、最後は話すこともできなくなってしまったそうで、イルカさんが自分や息子さんの歌をCDで聴かせると、目が輝き、涙を流すこともあったそうですが、2007年3月21日、ついに、59歳で他界されたのだそうです。
ちなみに、神部和夫さんは、息を引き取る直前、目をギュッと3回つむったそうですが、イルカさんは、それを、神部和夫さんからの「さようなら」の言葉だと理解したのだそうです。
「イルカの子供は?息子・神部冬馬夫婦と孫4人と父親の8人暮らし!」に続く
夫の神部和夫さんとは、大学1年生の時に、フォークソング同好会にコーチとして指導に来てくれたことで知り合い、それから1年後にプロポーズされて結婚に至ると、幸せな結婚生活を送るも、2007年には、長年のパーキンソン病の闘病の …