大分舞鶴高校在学中、南こうせつさん、伊勢正三さんと共に、高校生アマチュアバンド「ヤング・フォーク・スリー」を結成し、活動していたという、釘宮誠司(くぎみや せいじ)さん。

そんな釘宮誠司さんは、高校卒業後は、精神科の医師を目指して大学の医学部に進学すると、その後、日本を代表する精神科医となっています。

今回は、釘宮誠司さんの高校時代、高校卒業後からの医師としての活動やキャリアなどをご紹介します。

釘宮誠司

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釘宮誠司のプロフィール

釘宮誠司さんは、1949年or1950年生まれ、

(釘宮誠司さんの親友だった同級生が、1949年2月13日生まれの南こうせつさんを「一級上」と弔事で読んでいることから)

大分県の出身、

学歴は、
上野ヶ丘中学校
⇒大分県立大分舞鶴高校
⇒杏林大学医学部卒業
(熊本大学医学部精神神経医学教室でも精神医学を学んでいたそうです)

ちなみに、「釘宮誠司」は本名で、兄は、元大分市長の釘宮磐さんです。

釘宮誠司は高校時代は南こうせつ、伊勢正三とともにアマチュアバンド「ヤング・フォーク・スリー」で活動していた

釘宮誠司さんは、中学2年生の時は、柔道部に所属していたそうですが、中学卒業後は、コーラス部に所属していた友人と共に大分舞鶴高校に進学すると、高校では、その友人と2人でコーラス部に入部したそうです。

そして、高校2年生の時には、1学年先輩の南こうせつさんと後輩の伊勢正三さんと共に、アマチュアバンド「ヤング・フォーク・スリー」を結成すると、ピーター、ポール&マリーの「虹と共に消えた恋」などをコピーし、文化祭やヤマハのコンクールなどに出場していたそうです。

(コーラス部で合唱の練習が終わり、みんなが帰った後に、隠しておいたギターを持ち出し、フォークソングを歌っていたそうです)

ちなみに、当時、学校では、文部省(文部科学省)が指定した歌しか歌ってはいけないことになっていたそうで、文化祭では、3曲のうち2曲は指定の曲、もう1曲は南こうせつさんと伊勢正三さんが共同でオリジナル曲を作り、先生に「指定の歌です」と言って歌ったといいます。

「ヤング・フォーク・スリー」
大分舞鶴高校時代、「ヤング・フォーク・スリー」として文化祭で演奏する、南こうせつさん(左)、釘宮誠司さん(中央)、伊勢正三さん(右)。

また、南こうせつさんが高校卒業後、上京してからは、伊勢正三さんと2人で「S&S」というユニットを組んで活動していたそうです。

釘宮誠司は高校卒業後は精神科の医師を目指し杏林大学医学部に進学していた

そんな釘宮誠司さんは、高校卒業後は、知的障害を持つ人々を支援してきたお父さんの後を継ぐべく、精神科の医師になろうと、大学の医学部を受験したそうですが、

不合格となってしまい、浪人生活を経て、杏林大学医学部に進学したそうです。

釘宮誠司は51歳の時に「博愛病院」を開院し医院長に就任していた

その後、釘宮誠司さんは、「日本政府派遣タイ国カンボジア難民救済医療団」第一陣として難民医療に従事した後、

  • 1983年(31歳)には、国立病院機構静岡神経てんかん・医療センターでてんかん学を学ぶ
  • 1986年(34歳)には、博愛診療所を開院
  • 1996年(44歳)には、中国北京市に北京協和医科大学付属北京協和医院と合弁で「協和博愛北京てんかんセンター」を開設し、理事長に就任
  • 2003年(51歳)には、子供たちを支援する「特定非営利法人NPOかぐや姫」を設立し、理事長に就任
  • 2003年(51歳)には、「博愛病院」を開院し、院長に就任すると、その後「博愛こども成育医療センター」を併設

と、小児精神科医療に携わり、日本を代表する神経科医となっています。

釘宮誠司は「抱きしめて―子どもたちの叫びが聞こえますか?」など著書も多数出版

また、釘宮誠司さんは、

などの著書も出版しています。

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釘宮誠司の死因は?息子は釘宮毅

ただ、そんな釘宮誠司さんも、2023年9月12日には他界され、

(死因は明かされていません)

現在は、息子の釘宮毅さんが「博愛病院」の理事長に就任されているようです。

お読みいただきありがとうございました

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