フォークグループ「シュリークス」での活動を経て、1973年には、「南こうせつとかぐや姫」(第二期「かぐや姫」)で「神田川」が160万枚を売り上げる大ヒット、「かぐや姫」解散後の1975年には、ソロシングル「風の街」がヒットを記録した、山田パンダ(やまだ ぱんだ)さん。
今回は、そんな山田パンダさんの、若い頃(シュリークス時代)の楽曲や経歴をデビューから時系列でまとめてみました。
山田パンダのプロフィール
山田パンダさんは、1945年5月13日生まれ、
佐賀県神埼郡千代田町大字崎村字黒津(現・神埼市)の出身、
学歴は、
大牟田市立橘中学校
⇒久留米大学附設高等学校中退
⇒福岡県立嘉穂高等学校
⇒八幡大学法経学部中退
⇒明治大学工学部工業化学科卒業
だそうです。
山田パンダの名前の由来は?本名は?
ちなみに、山田パンダさんの本名は、「山田嗣人」(やまだ つぐと)なのですが、
芸名の「山田パンダ」は、1968年、フォークグループ「シュリークス」でデビューした時、ステージでジャイアントパンダのTシャツを着ていたことから、
客席の女の子たちから、
パンダちゃーん!
という声が飛んだそうで、
それ以来、パンダと呼ばれるようになり、1971年に「かぐや姫」を結成した際、正式に、アーティストネームを「山田パンダ」としたのだそうです。
(作詞作曲は「山田つぐと」名義を使用しています)
ジャイアントパンダのTシャツを着た当時の山田パンダさん。
山田パンダは19歳の時にビートルズの音楽に夢中になっていた
山田パンダさんは、1962年4月、16歳の時、ヘレン・シャピロの「悲しき片想い」を聴いて、ポピュラー音楽に目覚めたそうですが、
1964年、19歳頃、福岡で浪人生活を送る中、ビートルズの映画で、「A Hard Day’s Night」を聴くと、それまで聴いていたヘレン・シャピロやリッキー・ネルソンなどとは一線を画すビートルズの音楽にたちまち夢中になったそうで、1週間、映画館に通い詰めたそうです。
山田パンダは明治大学在学中にはGS(グループサウンズ)のステージを観て感激していた
その後、山田パンダさんは、明治大学に進学するために上京すると、たまたま、観に行ったライブハウス「新宿アシベ」で、ザ・スパイダース、ワイルドワンズ、ザ・タイガース、ブルーコメッツ、ヴィレッジシンガーズなどのGS(グループサウンズ)を初めて知ったそうですが、
この時も、ビートルズのような音楽に感激したそうです。
山田パンダは明治大学1年生の時に日本テレビ報道局で徳光和夫らアナウンサーをサポートするアルバイトを始めていた
ただ、お父さんと堅い仕事に就くことを約束していたという山田パンダさんは、GS(グループサウンズ)の音楽に憧れる心にフタをして、学業に励んだそうで、そんな中、放送研究会に入部していたそうですが、
1966年、大学1年生のある日のこと、部室にOBの福留功男さんが来て、日本テレビ報道部でのバイト希望者を募ったことから、山田パンダさんは手を挙げたそうで、
(手を挙げたのは山田パンダさん一人だけだったそうです)
翌日から日本テレビ報道局で徳光和夫さんや小林完吾さんらアナウンサーやスタッフたちをサポートする(新聞の切り抜き、牛乳、ニュースの原稿などを運ぶ)アルバイトを始めたのだそうです。
山田パンダは神部和夫に誘われ「シュリークス」と早稲田大学フォークソングクラブに加入していた
そんな中、山田パンダさんは、(時期は不明ですが)外報部を訪れた際、そこでアルバイトをしていた早稲田大学の学生・神部和夫さんと知り合うと、すっかり意気投合したそうで、
ある日のこと、神部和夫さんに早稲田大学フォークソングクラブへの誘いを受け、部室に向かう車の中で、自身のフォークグループ「フォーシュリーク」を解散したことと、新グループ「シュリークス」のメンバーにも誘われたそうで、
山田パンダさんは、(GSやロックが好きで、フォークソングにはそれほど思い入れはなかったものの)「シュリークス」に加入したのだそうです。
山田パンダは大学4年生の時に「シュリークス」として「君よ!人生は/社会学入門」でレコードデビューするもヒットしなかった
こうして、山田パンダさんは、1968年12月、大学3年生(23歳)の時に、神部和夫さん、嘉屋泰雄さん(早稲田大学)と共に「シュリークス」として活動を開始すると、
翌年の1969年9月、大学4年生(24歳)の時には、「君よ!人生は/社会学入門」でレコードデビューするのですが・・・
残念ながらヒットとはなりませんでした。
(その後、嘉屋泰雄さんが脱退し、入れ替わりに、「ザ・リガニーズ」の所太郎さんが加入しています)
「君よ!人生は/社会学入門」
山田パンダが25歳の時には「シュリークス」として「アメリカ大陸縦断コンサート」に参加し成功を収めていた
それでも、山田パンダさんは、大学卒業後の、1970年8月、25歳の時には、「シュリークス」として、約1ヶ月、所属事務所・東芝レコードの企画「カレッジポップス・アメリカ大陸縦断コンサート」に参加し、日本の民謡や古い大衆歌謡を中心に演奏すると、
日系人の観客から拍手喝采となったそうで、大成功を収めたのだそうです。
(「カレッジポップス・アメリカ大陸縦断コンサート」は、当時「ロックキャンディーズ」だった谷村新司さん、加藤和彦さん、ミカさん、北山修さんらも参加したアメリカ・カナダ・メキシコ・ハワイを周る海外コンサートツアーで、1970年8月に 「ヤング・ジャパン」細川健さんを団長として日本を出発したそうです)
山田パンダは25歳の時に「シュリークス」として「さらば」「知床旅情」「君の生まれた朝」をリリースしていた
しかし、帰国後、「シュリークス」は、精力的にライブを重ねつつ、
- 1970年9月5日(25歳)「さらば」
- 1971年2月25日(25歳)「知床旅情」
- 1971年4月25日(25歳)「君の生まれた朝」
と、アルバムを3枚リリースするも、
(ライブは高く評価されるものの)相変わらずレコードの売上はパッとしなかったそうで、山田パンダさんは、売れないことに疲れを感じ始めたそうです。
山田パンダは25歳の時に「シュリークス」を脱退しDJに転身していた
そんな中、山田パンダさんは、アメリカ縦断中に観たロックコンサートや洋楽の話をしたことがきっかけで、FM東海(後のFM東京)の洋楽番組に誘われてDJに転身すると、1971年4月頃、25歳の時には、「シュリークス」を脱退したのでした。
とはいえ、山田パンダさんは、神部和夫さんにとても感謝しているそうで、
そこ(アルバイト先)に神部ちゃんがいなかったら、今俺ここにいないから
と、語っています。
「【画像】山田パンダの若い頃(かぐや姫)から現在までの代表曲や経歴を時系列まとめ!」に続く
南こうせつさんに誘われ、1971年、「南こうせつとかぐや姫」(第二期「かぐや姫」)を結成すると、自身が作詞作曲した4枚目のシングル「僕の胸でおやすみ」が初のオリコンチャートにランクインし、続く、5枚目のシングル「神田川」 …