1965年、「ザ・フォーク・クルセダーズ」を結成し、1967年には、「帰って来たヨッパライ」が、オリコン史上初のミリオンセラーとなる大ヒットを記録すると、以降、「戦争を知らない子供たち」「あの素晴らしい愛をもう一度」などの作詞を担当するも、その後は、精神科医の道に進んだという、北山修(きたやま おさむ)さん。

そんな北山修さんは、少年時代から医師を目指していたそうですが、思春期の頃にビートルズの音楽に出会って衝撃を受け、音楽に夢中になったそうで、

高校では、カントリー・フォークのバンドを結成し、ギターを担当すると、大学2年生の時には、男性ファッション誌「メンズクラブ」の読者欄にアメリカンフォークのバンドでメンバー募集している記事を見て、すぐに応募したといいます。

今回は、北山修さんの幼少期(生い立ち)から大学時代までをご紹介します。

北山修

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北山修のプロフィール

北山修さんは、1946年6月19日生まれ、
京都府京都市の出身、
兵庫県洲本市生まれ、

学歴は、
洛星中学校・高等学校
⇒京都府立医科大学医学部卒業
(学位は医学博士)

ちなみに、「北山修」は本名で、精神科医として活動する時は本名の「北山修」、音楽活動をする時は「きたやまおさむ」名義で活動しています。

北山修は思春期にビートルズを聴いて衝撃を受けていた

北山修さんは、内科医のお父さんと、薬剤師のお母さんのもと、誕生したそうで、

両親の影響で、少年時代から医師を目指していたそうですが、思春期の頃にビートルズを聴いて衝撃を受け、以降、音楽に夢中になったそうです。

北山修は高校時代はカントリーフォークバンドでギターを担当していた

そんな北山修さんは、高校時代には、カントリー・フォークをやっていたそうで、中学・高校の後輩だった豊田勇造さんらとバンド「衣笠マウンテンボーイズ」を結成し、ギターを務めたそうです。

(バンド名は「衣笠」という所に学校があったことに由来しているそうです)

北山修は大学2年生の時に加藤和彦らと「ザ・フォーク・クルセダーズ」を結成していた

また、北山修さんは、高校卒業後、京都府立医科大学医学部に進学したそうですが、音楽活動は続けていたそうで、

1965年9月、19歳(大学2年生)の時には、男性ファッション誌「メンズクラブ」の読者欄に、

フォーク・コーラスを作ろう。当方、バンジョーと12弦ギター有り。フォークの好きな方連絡待つ

という、アメリカン・フォークのメンバーを募集している投稿を見つけ、

すぐに、投稿主だった加藤和彦さんに連絡し、自転車で加藤和彦さんの自宅を訪ねると、すぐに、加藤和彦さんと意気投合したそうで、

その後、浪人生の井村幹夫さん、芦田雅喜さん、高校3年生だった平沼義男さんが加わり、“世界中の民謡を紹介する”というコンセプトのもと、5人組のバンド「ザ・フォーク・クルセダーズ」を結成したのだそうです。

(ただ、すぐに、浪人生の井村幹夫さんと芦田雅喜さんが受験のために脱退したそうで、北山修さん、加藤和彦さん、平沼義男さんの3人での活動となったそうです)

北山修は大学時代は「ザ・フォーク・クルセダーズ」として関西を中心に人気を博していた

そして、北山修さんら「ザ・フォーク・クルセダーズ」は、関西アンダーグラウンドシーンで活動し、ライブでは、アメリカンフォーク(コピー)を中心に演奏したそうですが、

2年ほど経つと、外国曲のコピーに飽き、様々なジャンルの音楽を取り入れて、アレンジソングやオリジナルソングにチャレンジするようになったほか、

メンバー全員がお笑い好きだったことから、音楽に笑いの要素も加え、北山修さんがユニークなMCやパフォーマンスで盛り上げたそうで、

やがて、「ザ・フォーク・クルセダーズ」は、”笑いのフォークル”と呼ばれ、学生主催のコンサートに引っ張りだことなったのだそうです。

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北山修は大学時代はプロになるつもりはなかった

ただ、北山修さんは、この頃は、音楽でプロになるつもりはなく、「ザ・フォーク・クルセダーズ」の活動は、ただ、純粋に、面白いから、楽しいから、という理由でやっていたそうで、大学卒業後は、精神科医の道に進むと決めていたといいます。

そのため、1967年、大学3年生の時には、医学部の勉強が忙しくなったことから、「ザ・フォーク・クルセダーズ」は解散することになったのだそうです。

(加藤和彦さんと平沼義男さんも、北山修さん同様、将来、音楽のプロになるつもりはなかったそうで、加藤和彦さんはコック、平沼義男さんは家業を継ぐことを考えていたのだそうです)

「【画像】北山修の若い頃(ザ・フォーク・クルセダーズ時代)の楽曲や経歴は?」に続く

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