「ザ・フォーク・クルセダーズ」のメンバーとして「帰って来たヨッパライ」で一世を風靡すると、その後も、「あの素晴しい愛をもう一度」「戦争を知らない子供たち」など数々の名曲の作詞を手掛けて、独自の感性と社会への鋭い視点で時代を映し出し、日本のフォークソングの黄金期を支えた、北山修(きたやま おさむ)さん。
そんな北山修さんのプライベートはどのようなものだったのでしょうか。
今回は、北山修さんの、妻、子供(息子1人、娘2人)についてご紹介します。

「北山修の加藤和彦への追悼文は?加藤和彦の変化に気付き心配していた!」からの続き
北山修の妻は?
北山修さんは結婚しているようですが、北山修さんは、プライベートについて、ほとんど明かしていないため、奥さんとどのように知り合い、いつ頃から交際して、どのような経緯で結婚に至ったかは不明です。
北山修と妻の夫婦仲は良好?
ただ、2016年、大阪大学病理学教授だった仲野徹氏(現在は大阪大学大学院名誉教授)が、2017年、自身のエッセイで、
去年(2016年)の秋、京都の繁華街をぶらぶらしていて、白髪の男性が奥さんと思われる人と手をつないで歩いているのを見かけた。
すごく自然で、映画のシーンのようにかっこよくて、思わず見とれてしまった。顔を見て、あれっ?と思った。北山修とちゃうの。
その瞬間、「あの素晴らしい愛をもう一度」が脳内を駆け巡ったのは言うまでもない。その北山修─といっても声をかけた訳じゃないのでご本人かどうかわからないのだが。
と、綴っており、
もし、この男性が本当に北山修さんだとすると、北山修さんは奥さんととても仲が良いようです。
北山修の子供は3人(息子1人と娘2人)
そんな北山修さんと奥さんの間には、息子さんが1人と娘さんが2人の計3人の子供が誕生しているそうで、
長女は、1974年頃に誕生した、形成外科医の北山英美子さんで、現在、美容皮膚科「フェミークリニック」の総院長を務めているそうです。
また、長男は、1979年10月26日に誕生した、北山徹さんで、2006年に日本歯科大学歯学部を卒業後、歯科医師となり、現在は、「北山デンタルクリニック銀座」を開業し、院長を務めているそうです。
(次女の詳細は不明なため、芸能関係者や医師等、著名人ではないようです)
北山修は実家の医院を大学の同級生に譲っていた
ちなみに、北山修さんのお父さんも医師だったそうで、戦争中は、応召し、満州に出兵するも、満州で結核にかかって送還され、療養後、(現在の)JR京都駅から徒歩5分のところに、「北山医院」を開業していたそうで、
その後、いつ頃かは不明ですが、お父さんが急に他界され、しばらくは、北山修さんがこの「北山医院」を引き継いでいたそうですが、しばらくして休院。
そんな中、北山修さんが東京で開業することになり、「北山医院」の処分を考えていたところ、北山修さんの大学の同級生だった西澤明彦さんが引き継ぐことになり、「西澤内科医院」となったそうで、
その後、2022年には、川口隆作さんという方が医院長に就任し、病院名も「西澤内科医院」から「川口内科医院」に変更されているとのことです。
さて、いかがでしたでしょうか。
北山修さんの、
- 北山修の生い立ちは?少年期から医師を志し大学でも音楽でプロになるつもりはなかった!
- 北山修のプロフィール
- 北山修は思春期にビートルズを聴いて衝撃を受けていた
- 北山修は高校時代はカントリーフォークバンドでギターを担当していた
- 北山修は大学2年生の時に加藤和彦らと「ザ・フォーク・クルセダーズ」を結成していた
- 北山修は大学時代は「ザ・フォーク・クルセダーズ」として関西を中心に人気を博していた
- 北山修は大学時代はプロになるつもりはなかった
- 【画像】北山修の若い頃(ザ・フォーク・クルセダーズ時代)の楽曲や経歴は?
- 北山修は大学時代「ザ・フォーク・クルセダーズ」解散記念としてアルバム「ハレンチ」を自主制作するも全く売れなかった
- 北山修は大学時代「ザ・フォーク・クルセダーズ」として「帰って来たヨッパライ」がラジオで大反響を呼んでいた
- 北山修は加藤和彦を説得して「ザ・フォーク・クルセダーズ」の活動を継続させていた
- 北山修は21歳の時に「ザ・フォーク・クルセダーズ」として「帰って来たヨッパライ」がミリオンセラーとなる大ヒット
- 北山修は21歳の時に「ザ・フォーク・クルセダーズ」としての2枚目のシングル「イムジン河」が発売中止となっていた
- 北山修は21歳の時に「ザ・フォーク・クルセダーズ」としての2枚目のシングル「悲しくてやりきれない」がヒット
- 北山修は22歳の時に「ザ・フォーク・クルセダーズ」を解散
- 【画像】北山修の若い頃(作詞家)は「あの素晴しい愛をもう一度」が大ヒット!
- 北山修は24歳の時に加藤和彦と「あの素晴しい愛をもう一度」をリリースしロングヒットなっていた
- 「あの素晴しい愛をもう一度」は北山修が加藤和彦の結婚祝いに作った歌詞だと発表していたが・・・
- 「あの素晴しい愛をもう一度」はもともと「シモンズ」のデビュー曲として作ったものだった
- 北山修が加藤和彦の結婚祝いに作った歌詞だと嘘をついた理由とは?
- 北山修の若い頃から現在までの作詞作品や著書(精神科医)ほか経歴は?
- 北山修は25歳の時に作詞した「戦争を知らない子供たち」が大ヒット
- 北山修は「戦争を知らない子供たち」の作曲を加藤和彦に断られていた
- 北山修は「戦争を知らない子供たち」に批判が殺到し創作意欲を失っていた
- 北山修は24歳の時に堺正章のソロデビューシングル「さらば恋人」が大ヒット
- 北山修は25歳の時に医師への道に進んでいた
- 北山修は30歳の時にアルバム「12枚の絵」をリリース
- 北山修は34歳から精神科医として活動していた
- 北山修は現在も音楽活動を継続中
- 北山修のアルバム
- 北山修の作詞作品(提供曲)
- 北山修の著書
- 単著
- 共著
- 翻訳
- 北山修の加藤和彦への追悼文は?加藤和彦の変化に気付き心配していた!
- 北山修は加藤和彦の変化に気づき心配していた
- 北山修は加藤和彦が行方不明になり必死に探していた
- 加藤和彦の部屋に唯一残されていたのはザ・フォーク・クルセダーズの解散コンサートの写真だった
- 北山修は加藤和彦の潔い最期に衝撃を受けていた
- 北山修の加藤和彦への追悼文
- 北山修の妻は?家族は?子供は息子1人娘2人で長男長女共に医師!
- 北山修の妻は?
- 北山修と妻の夫婦仲は良好?
- 北山修の子供は3人(息子1人と娘2人)
- 北山修は実家の医院を大学の同級生に譲っていた
について、ご紹介しました。
ザ・フォーク・クルセダーズとして「帰って来たヨッパライ」などで一世を風靡すると、その後は、精神科医として多くの人々を支えながら、作詞家・歌手としても名曲を残してきた北山修さん。
盟友・加藤和彦さんを自らの力で救えなかったことに深い無念を抱きつつも、その思いを胸に、精神医療や音楽活動を通じて人々に寄り添い続けている北山修さんには、これからも静かにエールを送り続けたいです。
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1965年、「ザ・フォーク・クルセダーズ」を結成し、1967年には、「帰って来たヨッパライ」が、オリコン史上初のミリオンセラーとなる大ヒットを記録すると、以降、「戦争を知らない子供たち」「あの素晴らしい愛をもう一度」など …







