大学3年生の時、「ザ・フォーク・クルセダーズ」の解散を決めるも、解散の記念にと制作した自主制作アルバムがラジオで大反響を呼び、プロデビューの話が舞い込むと、
1年だけの活動という条件のもと、1967年12月、シングル「帰って来たヨッパライ」でレコードデビューすると、たちまち、ミリオンセラーの大ヒットとなり、続く、2枚目のシングル「悲しくてやりきれない」もヒットした、北山修(きたやま おさむ)さん。
今回は、北山修さんの、若い頃(「ザ・フォーク・クルセダーズ」時代)の楽曲や経歴を時系列でご紹介します。
「北山修の生い立ちは?少年期から医師を志し大学でも音楽でプロになるつもりはなかった!」からの続き
北山修は大学時代「ザ・フォーク・クルセダーズ」解散記念としてアルバム「ハレンチ」を自主制作するも全く売れなかった
大学時代、加藤和彦さんと平沼義男さんと共に「ザ・フォーク・クルセダーズ」で、学生主催のコンサートに引っ張りだことなるも、1967年、大学3年生の時には、医学部の勉強が忙しくなったことから、「ザ・フォーク・クルセダーズ」を解散することにしたという北山修さんは、
お父さんに、今後は音楽をやめて堅気(かたぎ)になることを約束して30万円を借り、解散記念として、「帰って来たヨッパライ」や「イムジン河」など、これまで歌ってきた曲を収録したアルバム「ハレンチ」を300枚自主制作し、華々しく解散コンサートも行ったそうで、
もうこれで、何も思い残すことなく解散・・・となるはずだったそうですが、
自主制作したアルバム「ハレンチ」は全く売れず、制作費の30万円すら回収できなかったそうです。
北山修は大学時代「ザ・フォーク・クルセダーズ」として「帰って来たヨッパライ」がラジオで大反響を呼んでいた
そこで、北山修さん、加藤和彦さん、平沼義男さんの3人は、レコードの売り込みに奔走したそうですが、
特に、北山修さんは、お父さんに借金をしていたため、必死になって、あらゆるラジオ局を回るほか、マネージャー的な役回りも担っていたそうです。
すると、そんな必死の売り込みが功を奏し、ラジオ関西の女性ディレクターが「帰って来たヨッパライ」を取り上げ、ラジオで流してくれたそうですが、
途端に、リクエストがラジオ局に殺到し、ラジオ関西は、開局以来初めての電話回線がパンクする状態になったそうで、「ザ・フォーク・クルセダーズ」は、一瞬にして、有名になったのでした。
北山修は加藤和彦を説得して「ザ・フォーク・クルセダーズ」の活動を継続させていた
また、日本中のあらゆるレコード会社から、プロデビューの話が舞い込んできたそうで、
大学卒業後は医師の道に進むことに決めていた北山修さんも、
1年だけやってみよう
と、思い直し、
この時、コックの就職先が決まりかけていた加藤和彦さんを連日説得すると、ついに加藤和彦さんも折れて、”1年だけ”という条件で受け入れたのだそうです。
ちなみに、それからというもの、加藤和彦さんには、
おまえが音楽の道に引きずり込んだ
と、言われるようになったそうです。
(ただ、平沼義男さんは、すでに音楽から気持ちが離れており、プロデビューの話をきっぱりと断ったそうで、平沼義男さんの代わりに、はしだのりひこ(端田宜彦)さんが「ザ・フォーク・クルセダーズ」に加入しています)
北山修は21歳の時に「ザ・フォーク・クルセダーズ」として「帰って来たヨッパライ」がミリオンセラーとなる大ヒット
こうして、北山修さんたち「ザ・フォーク・クルセダーズ」は、1年間という期限つきでプロデビューすると、
1967年12月25日にリリースされた「帰って来たヨッパライ」は、あっという間にヒットチャートを駆け上り、1968年2月15日には、オリコンチャート史上、日本初のミリオンセラー(売上100万枚)を達成し、最終的には、累計売上280万枚という、メガヒットとなったのでした。
「帰って来たヨッパライ」
(加藤和彦さんを中心に制作された「帰って来たヨッパライ」は、従来の日本の音楽業界の、作詞・作曲家が手掛けた曲を歌手が歌うというスタイルを打ち破り、シンガーソングライターという存在を世に知らしめる作品となったのでした)
北山修は21歳の時に「ザ・フォーク・クルセダーズ」としての2枚目のシングル「イムジン河」が発売中止となっていた
そんな「ザ・フォーク・クルセダーズ」は、1968年2月には、2枚目のシングルとして、引き裂かれた南北朝鮮を歌った曲「イムジン河」をリリースする予定で、13万枚のレコードが制作されたそうですが、
政治的な背景から、店頭に並ぶ直前(前日)に発売が差し止められたそうで、出荷寸前だったレコードは回収・破棄されることになったそうです。
北山修は21歳の時に「ザ・フォーク・クルセダーズ」としての2枚目のシングル「悲しくてやりきれない」がヒット
ただ、「イムジン河」が発売中止となってわずか1ヶ月後の1968年3月21日、2枚目のシングルとして、急遽、作られた「悲しくてやりきれない」をリリースすると、この曲もヒットを記録しています。
「悲しくてやりきれない」
北山修は22歳の時に「ザ・フォーク・クルセダーズ」を解散
その後、北山修さんら「ザ・フォーク・クルセダーズ」は、同年(1968年)7月1日、「ザ・ズートルビー」名義で、「水虫の唄」をリリースするも、
同年10月17日には、大阪で”さよならコンサート”を開催すると、その日の夜に、深夜番組「11PM」に出演し、これを最後に、当初の予定通り、1年で解散したのでした。
(ただ、解散後の同年(1968年)12月5日には、「ザ・フォーク・クルセダーズ」の最後のシングルとして、「青年は荒野をめざす」(作曲・加藤和彦さん、作詞・五木寛之さん)がリリースされています)
「【画像】北山修の若い頃は「あの素晴しい愛をもう一度」が大ヒット!」に続く
「青年は荒野をめざす」
1968年に「ザ・フォーク・クルセダーズ」を解散した後、作詞家として活動する中、1971年4月、加藤和彦さんと連名で、「あの素晴しい愛をもう一度」をリリースすると、ロングヒットとなった、北山修(きたやま おさむ)さん。 …